【第27回武蔵野政治塾は、3月20日、岡山県岡山市の岡山コンベンションセンターで開催されました。
テーマは「日本の政治に明日をつくろう」で、前・明石市長・泉房穂さんをお招きしました。
当日、岡山地方は台風に襲われ、開催が危ぶまれましたが、大勢の方が参加されました】
嵐があれば、世の中は動く
原田ケンスケ
【最初に、コーディネーターの、立憲民主党の衆議院・岡山1区総支部長・原田ケンスケさんから、開会のあいさつがありました。】
今日は午前中、まさかの大嵐となり、びっくりしませんでしたか。
嵐のなかを来ていただくのは、本当に申し訳ないなと思いながらも、いやいや、嵐でも皆さん絶対、来てくださるだろうという確信を持ちながら、今日ここに立たせていただいております。
ご覧のとおり、超満員になりました。嵐があれば、いろんなことが動き出す。そういう大きな大きな嵐だと、思っております。
私は1986年、昭和61年生まれの37歳です。まさに、もの心ついてからの30年間が、「失われた30年」でした。私たちの未来、皆さんの将来を、ひどいことにさせるわけにはいかない、そういう思いで私自身、これまでインターネット選挙運動の解禁、18歳選挙権の実現、などいろんなことに取り組んできました。
そして次は国の政治を、政治の中から変えようという挑戦をしているところですが、なかなか難しい。
でも、いろんな方の声を聞かせていただいております。
学生の方がこう言うんです。「生活費は自分で何とかするんだけど、せめて大学の学費はもっと下がらないものでしょうか」
みなさん、こういう声は学生のわがままでしょうか。
「子どもの安心と、成長のために保育園を増やしてほしい」「学童保育を増やしてほしい」「学校の先生の待遇をもっと良くしてほしい」
こういうことを願うのは、保護者の方の甘えでしょうか。
「物価がどんどんどんどん高くなっているなか、給料は上がらない、年金も上がらない。もうこれ以上、社会保険料を払い払いたくない」
そう思うのは自分勝手でしょうか。
いやいや、そんなことないですよね。そういう皆さんの声に応えていくのが、政治の役割だと、私は思っているんですが、なかなか私自身の力不足で悔しいなと感じることがあります。
でも、泉房穂さんがやってくれている。明石市で覚悟を持った政治家・泉房穂さんと、覚悟を持った市民の皆さんの力で、明石市が大きく変わりました。
明石市が変わって岡山が変わらないはずがない。
明石市が変わって、日本全国が変わらないはずがない。
私はそう信じて、今日この場を、多くの実行委員の皆さんと一緒に、企画させていただきました。
実は去年、津山市で泉房穂さんの講演を直接お聞きをして、「岡山市でもやってもらおう」と思い、今日このような場をつくらせていただきました。
今日、皆さんと一緒に泉房穂さんの話からいろいろ学びを続けたいと思っていますし、学ぶだけじゃなくて、学んで変えていく、学んで行動するための濃密な2時間を、皆さんと一緒に過ごしていきたいと思います。
短いけれども濃密な2時間、どうぞよろしくお願いします。
いまは夜明け前、日本の政治に明日を
津村啓介
【続いて、コーディネーターの立憲民主党の衆議院、岡山2区総支部長・津村啓介さんがあいさつをしました。】
国民の思い、国民の力は、選挙を通じて政治に反映されてまいります。今の日本の選挙制度は、ちょうど30年前、平成6年の3月に成立した政治改革4法で成り立っています。この法律をつくったのは、8つの野党の会派が連立政権としてつくった細川政権でした。
その数年前から日本の政治の改革が声高に叫ばれ、「ばらばらの野党に政権を担えるはずはない」と言われていましたが、8つの野党が力を合わせて大きな政治改革を実現しました。
小選挙区制度の導入や政党助成金制度、そして厳しくなった政治資金規正法、そのルールのもとで、15年後の2009年には一度、政権交代が実現しました。その間、主に野党では、親が政治家ではない、世襲でない政治家もたくさん世に出ていきました。
しかし、それからさらに15年、細川内閣から30年経った今、そのきっかけであったはずのリクルート事件や、金丸脱税問題よりも大規模な「裏金問題」が連日のように報道され、多くの日本国民の皆さんが強く憤ってらっしゃると思います。
30年前もきっかけはバブルの崩壊、経済政策の失敗でした。
昨日、日本銀行はマイナス金利政策を解除しました。日本銀行が、アベノミクスの失敗、アベノミクスの修正を始めたいま、私たち政治も、そして国民も、30年前の平成初期の政治家のように、立ち上がり、ばらばらの野党を束ねて、この国の政治を前に進めていかなければならない。
その時が今やってきていると思います。いまは、夜明け前です。
「日本の政治に明日をつくろう 武蔵野政治塾in岡山」、今日のゲスト、明石市の実績をもとに、希望の言葉で、毎日国民を勇気づけておられる泉房穂さんでございます。
私たちの大先輩・江田五月さんは、「政治とは理想を現実につなげていく技術だ、営みだ」とおっしゃっていました。泉さんが語る理想、そして、泉さんの明石市での実績を、皆さんと学んで、必ず現実を理想に近づけていこうではありませんか。
日本の政治に明日をつくろう
泉房穂
【泉房穂さんのお話の始まりです。今回のレポートでは標準語にせず、泉房穂さんの独特の関西弁を、なるべくそのまま書き起こしました。】
日本の夜明けのために
皆さん、こんにちは。嬉しいね。こんなようけ~来ていただきまして、ありがとうございます。
最近、テレビなどにもたまに呼んでもらえることになって、ちょっとは知っとる人も増えましたけども、まだまだです。けど、この岡山にお呼びいただいて、本当に嬉しく思います。
私は岡山にいろいろご縁ありまして、私自身が政治の世界で本当にご指導をいただいたのは、江田五月さん、そして江田五月氏の秘書だった石井紘基さん、このお二人が私の政治の恩師であります。
江田五月さんのお父さんの江田三郎さんには、私はもちろんお会いしたことはありませんけども、遠い昔の1930年代に、農民運動や庶民の立場で反戦運動をするなかで、治安維持法で逮捕されて獄中にいるときに、江田三郎さん、くじけることなく、夜空に輝くシリウスという星のことを妻に語られたという話は、大好きでした。
そのシリウスの名をつけた政治団体を、江田五月さんが立ち上げられ、その翌年に、いまも話にありました細川政権ができ、日本の夜明けが始まろうとした。
でも、残念ながら、日本はまだまだ夜明け前だと思っています。
そういったなかで、まさに日本の夜明けを迎えるべく、この思い入れの強い岡山に寄せていただいております。
今日は2時間よろしくお願いします。
今日は、どうしてもお伝えしたいことが、4つあります。
1つ目は、政治は誰がやっても一緒ではない、誰が政治家するかで政治世の中変わる。
みんな諦めている。政治なんか誰がやっても変わらない、なんていうのは嘘です。変わるんです。変えられるんです。このことをぜひお伝えしたい。
2つ目は、政治が変わったら、笑顔が生まれる。生活助かるんです。政治は生活そのものです。子どもにとっての未来そのものです。くさい言い方だけど、ほんまにそうなんです。
それができるのが政治じゃないですか。政治を諦めるというのは、未来を諦めることです。
政治には可能性がある。政治家というのは、汚い仕事じゃない。政治というのは、美しい仕事や。私たちの生活を良くすることもできる。それが政治です。まさに政治には力がある。政治で笑顔が作れる。
3つ目、そういった政治を変えていくのはいつなのか。これはまさに「今」です。時間が戻らない以上、今より速い時はない。5年後、10年後ではないんです。すぐ変えるんです。
ある意味、海で溺れかけている人がいる状況です。溺れそうな人がいるんだったら、助けるに決まっとるじゃないですか。溺れた後に助けに行っても遅いんです。溺れてる人がいっぱいいるような現状、子どもたちも夢を語れない、結婚したくてもちゅうちょする。子どもを2人目3人目を考えているけど、やめようと思う。
こんな国は異常です。
私たちが自らしようとする選択を、政治が阻んでいる。本来、政治というものは、応援するものです。今は応援でなく、嫌がらせをしている状況です。いい加減、嫌がらせするような政治をやめさせないと、もう本当にもたない。
いつ変えるのか、まさに今変える。これが3つ目。
4つ目は、誰が政治を変えるのか。変えるのは政治家だけじゃない。まさに変えるのは市民。私たちです。明石の町は、こんなキャラの濃いどうかした私だけど、明石の市民が町を変えてきた。
そのことをぜひお伝えしたい。
1つ目、政治は誰がやっても一緒ではない
2つ目、政治には可能性がある
3つ目、まさに変えるのは今
4つ目、変えるのは今日ここにいる私たち
この4つのことを、前半1時間ぐらいかけて御説明申し上げたいと思います。
抽象的なことを話しても、ぴんと来ないと思いますので、明石市長12年やっていましたので、明石市長12年間のことを踏まえて、今のお話をお伝えしたいと思います。
その前に、自己紹介もした方が、理解が早いかと思いますので、少しだけ自己紹介さしてください。
若干プチ自慢と、ちょっとある意味、貧乏自慢ですけれども、ご容赦いただき、少し自己紹介します。
■家族4人の差別と貧困との闘い
私が生まれたのは、兵庫県の明石という漁師町です。
おやじは、兄貴が戦争で3人亡くなり、小学校を卒業してからずっと漁師をやってました。その3軒隣りの漁師の娘がおふくろで、中学を出て女工として働いた。その2人が結婚し、誓いました。自分たちは勉強したくてもできなかったので、自分たちが一生懸命働いて、子どもが勉強したかったら何とか高校ぐらい行かせてやろう。それが夫婦の結婚の誓いだと、後で周りからも聞かされました。
非常に愛情たっぷりで育てられました。幸せでした。でも、晩御飯のおかずは、ほんまに少なかった。
4つ下に弟が生まれました。その当時は、日本では優生保護法という法律があり、特に兵庫県は47都道府県で最もそれが厳しく、当時の県知事が県庁に組織を作って、不幸な子どもが生まれない運動をやってました。障害のある子どもが生まれそうだったら、命を終わらそうという運動がありました。信じられないことです。
1966年にその運動が始まり、我が弟は翌年1967年に生まれてしまった。弟は障害がある状況で生まれましたので、当時の兵庫県の方針に従い、そのままにすることになりました。要は見殺しにするということです。
両親はいったん同意書を書きましたが、最後のお別れと言って、両親が生まれ落ちたばかりの弟の顔を見た時に、おふくろがもう本当に泣きじゃくって、「嫌だ、連れて帰りたい」と言いました。周りの病院の人から「障害が残りますよ、大変ですよ」と言われましたけども、我が両親は「構わない」と、自分たちの一生を捧げる覚悟で、弟を私の待つ家に連れて帰ってきいました。
理不尽でした。周りの目は冷たかった。何で障害のある者を殺さずに、生きたまま持って帰ってくんねん、というような空気でした。助けるような時代じゃない。ほんとにひどかった。
そっから家族4人の闘いが始まりました。でも、親父もおふくろ一生懸命働いたけど、そうは言っても、そんなに生活は楽にならない。弟は歩けない、しゃべれないままです。そういうなかで月日が流れ、弟が2歳、私が6歳の時に、おふくろは弟と無理心中を図ります。
ただ、死にきれなくて帰ってきました。私も口悪いけど、おかんも無茶苦茶口悪くて、私に対してこう言った。
「お前がおるから死なれんかった」って
そして怒られた。ひどい話や。おまけにこない言われた。「返せ。あんたがそんなに弟の分とって生まれてきたから、あんたは勉強できるんや。だから、あんたは足速いんや」
むちゃくちゃな話です。でも、私的には幼心に大好きなお袋にそう言われたので、自分の体を引きちぎって返したいぐらいに、ほんまに思いました。
まさに差別と貧困です。一生懸命働いても報われない。一生懸命立ち上がろうとしても、周りが冷たい目で見る。そういった時代でした。
■「明石を優しい町にしてみせる」と誓う
でも、家族みんなで頑張って、弟は4歳で立ち上がり、5歳で歩き始めた。そしてその時に私たち家族は抱き合って喜びました。こでれで村の学校、私もおやじもおふくろも、おじいちゃん、おばあちゃんも通った近くの学校に行けるって喜んだものです。ところが、当時の行政が言ってきたのは、「そんなに歩きにくいんだったら、電車に乗ってバスに乗って遠い学校に行け」。
理不尽です。歩きにくいんだから手を貸しましょうではない。「そんな歩きにくい子がいたら、他の子に迷惑だから遠くの別の学校へ行け」と言う。
両親が一緒に頭を下げて、「何とかなりませんか」と言った時に、当時の行政はこう言った。
「2つの条件を飲んだら認めよう。1つは送り迎えは家族がしろ、2つは何があっても行政を訴えるな」
そう一筆書かされて、我が弟は私と同じ小学校に通うようになりました。両親は漁師ですから、朝も海に出ています。送り迎えは私がしました。二人分の教科書を私のカバンに詰めて、弟には空のランドセルを背負わせて、小学校の正門をくぐって入ったところにあるトイレの大便のとこに行って、弟のランドセルに教科書詰め替えて、弟の教室まで行って、「戦って来い。頑張って来いよ」と言って送り出したのが、私が5年生の時です。
そうやってやっと兄弟で同じ学校に通うになりましたが、周りの目は冷たかった。
まさにその年です。全校生で潮干狩りに行くことがありました、わずか5センチぐらいの浅瀬で、弟はひっくり返って溺れてしまいます。誰も起こしてくれなかった。障害のある者が、足が悪くてひっくり返った後、力が弱くて起き上がれないことを理解できなかった。
私は弟をチラチラ気にしていたので、走って行って弟を起こしました。泥だらけだった。私は悔しくて涙が出てきた。なんで起こしてくれなかったんだ、弟が溺れとるじゃないか、兄の私が駆け寄るまで、なんで誰も助けないんだ――でも、私は思いました。
誰も悪くない。友だちだっていい友だちだし、先生もいい先生だし、近所の人だって悪い人じゃない。にもかかわらず、何でこんな理不尽なことになるんだ。
私はその日、泥だらけの弟の手を引いて、家への帰り道で自分に誓った。何を誓ったか。
こんな社会、優しくしてみせる。こんな理不尽な思いが嫌だ。弟が突っ伏してて溺れたときに、駆け寄って助けてくれるような町に作りたい。
私は10歳の時に自分に誓った。自分の一生をかけて、この町を優しくしてみせる。そのために戦っていくんだ――まさにそれが、10歳の少年の誓いでありました。
暑苦しい話となりましたけど、私の原点はそこにある。
がんばったって、報われない人もいる。一生懸命生きようとしても、足が悪くて歩けない人だっている。
それに対して手を差し伸べるのが政治じゃないか。見捨てるのが政治じゃない。お互いに助け合うのが社会じゃないか。私はそう思って生きてきた。
なので、私自身は幼心に、わが町ふるさとの明石を優しくしたい、冷たい町を優しい町に変えたいと誓った。
それが私の政治の原点で、今年、60歳、還暦になりましたが、そういった思いで生きてきました。
■市長になれば町を変えられる
やっと市長になれたのが47歳でした。
私は早い段階から、明石の市長になろうと思っていました。なぜか。市長になれば、町を変えることができると私は信じたんです。
今日の1つ目のテーマが、これです。誰が政治をやっても一緒じゃない。
悔しい思いをした私が政治の立場に立って、その立場で町を本気で変えようとすれば、町は絶対変えられるはずだ――私は10歳からそのことを信じ続けていました。自分が市長になったら明石の町を変えれると、ほんまに思って生きてきた人間です。
そして47で市長になり、12年間、明石市長をさせていただいた。
■人口減少、財政赤字、駅前衰退・地方衰退の三重苦だった
実際、明石の町は変わりました。おかげさまで「本当に変わった」と多くの市民がそう言ってくれています。
私が市長になったのは13年前になります。去年まで12年間、明石市長をしていました
13年前の明石は、いわゆる三重苦の状態にありました。
1つ目は、人口減少です。明石市は他の町より先に人口減少が始まっていました。神戸市はまだ人口が増え続けていて、反対隣りの加古川市も人口が増え続けていたにもかかわらず、明石は先に人口減少が始まっている状況にありました。
2つ目は財政赤字です。かつて170億円あった明石の貯金額は、私が市長になった時には70億円でした。100億円、減っていたんです。おまけに、歴代市長が隠れ借金を作っていたので、100億円の借金が土地開発公社にありました。プラス70億円マイナス100億円ですから、マイナス30億円のスタートでした。
3つ目は、明石の駅前が衰退の一途でした。かつてにぎわったショッピングモールはテナントが撤退し、幽霊ビル化しました。駅前の人通りはどんどん減っていってる状況で、まさに地方衰退、駅前衰退の状況でした。
人口減少、財政赤字、駅前衰退・地方衰退の三重苦です。
何よりも悔しかったのは、明石の市民がうつむいて歩いていたことです。自分の町に誇りを持てなかった。明石の人間が、東京に行ったとき「どちらからお越しですか」ときかれたら、ほとんどの明石市民は嘘をついて「神戸です」と言ったんです。
なんでやねん。ちゃんと「明石」と言えよ、ひとに言われへんような町ちゃうで――私はほんまにそう思った。
私は、明石の人間に、東京へ行った時に「明石から来た」と胸張って言わしたろ、可能だったら、神戸市民に「明石の近く」て言わしたるぐらいに思った。
■優先度の高くない事業はやめた
13年前、私は市長になって、思い切って方針を変えました。
有名なのは子ども施策ですが、それだけじゃない。まさに市民の方を向いた政治をやっていきました。
市長になった瞬間から、そんなに優先度の高くない事業は、やめました。それまであった事業を全部、見直しました。
たとえば、市営住宅の建設計画は、戦後ずっと作ってきてたけど、実は明石市には県営住宅やURも多いんです。それなのに市営住宅も作りまくってきたから、他の町よりも、明らかに公営住宅の数が多すぎるぐらい多かった。
おまけに当時から、すでに空き家が出始めていました。民間がどんどん空き家になっていったので、私は方針転換し、「いっぱいある公営住宅をこれ以上作り続けるよりも、空き家対策として空き家の解体に対する支援をするとか、そこの手当てをして、民間活用した方が有効じゃないか」と言ったんです。
公営住宅は障害者のグループホームとかシェルターのような形で、公共性の高いものへ転用していく。
そう方針を変えて、あった計画を全部白紙にしました。
私が市長になってからは、何十年も作ってきた市営住宅を1軒も作っていません。
市長が「もう作らない」と決めた瞬間、お金は生まれるんです。
そういう形でお金を作り、そのお金を市民の方に振り向けた。
■子どもへ支援したことで、明石市は変わった
よく知られてるのは子どもに関係する支援策です。
明石では子どもの医療費は18歳まで完全無料です。2人目以降の保育料も完全無料です。給食も中学校まで無料です。遊び場も、大型遊具のある、他の町だったら3000円、4000円かかるところも、明石は親子ともに無料です。オムツも一歳まで家に届けて無料です。
このように、続々と市民サービスの拡充を図った。
その結果、―一気に状況は変わった。
どう変わったか。まず1つ目が、人口減少が止まって、3年目から人口増に転じました。
私が市長だった12年間で、明石の人口は29万から30万6000人へ、1万6000人、パーセントにして5%以上増えました。今も明石は増え続けて、11年連続人口増です。
人口増の割合は、全国の同じような人口規模の中核市62市で第1位でした。かつて人口減少だった明石市は、いまや全国トップの人口増の町になって、今も増え続けています。
どんどん人が集まってくる。住む人だけではない。来る人も駅前の人出は7割も増えています。人気の町に変わっていった。
「関西の住みたい街ランキング」という調査で、私が市長になるまで明石は、30位までのランクに入ったこともなかった。それこそ住みたい街じゃなくて、「住んだらあかん町」みたいに言われていた。しかも、明石の人間すら少しお金が儲かったら明石を出て、神戸とか阪神間に移り住みたいという人ばかりだった。
ところが、一気に人気が高まり、どうなったか。今や「関西の住みたい街ランキング」で、神戸も芦屋も抜き去って、調査によっては、明石は1です。だいたい3番目には入っとる。
明石の町は、「関西全域の住みたい街」になったんです。
■不動産価格も上がった
人気が高まった結果、明石の不動産価格は、私が市長になった時と比べたら、地域によっては2倍・3倍に跳ね上がっておる。全国でうちだけです。どんどん人が入ってきて、値段が上がっていった。
私が市長になった時に、駅前にタワーマンションを建てる計画があり、その業者が市役所へやってきて、私に会ってこう言ったんです。
「初めての明石市におけるタワーマンションなので、自信がないのでできるだけ安い価格でやろうと思います」
私はこう言った。「何を言うか。憧れのマンションにしてもらわな困る。みんなが頑張って働いて、何とかそこに住みたいと思うようなマンションを作ってくれ。安くするな。もっと高く売れ」
そう言ったら、驚かれました。
「全国を回ってるけど、だいていの市長さんは、安くしてくれと言うから、気を遣って言ったのに、高くしろなんて珍しいですね」
「何を言うか。これから明石の価値は上がんねん。私が市長になった以上、明石の価値は上がるに決まっとるやないか。何でそれが分からんのや。高く売れ、大丈夫や」
こう言ったのが、市長になって間もなくです。その4年後に実際、マンションを売りました。価格は普通の値段でした。今どうなったか。明石の駅前のタワーマンションは、今から6、7年前に売った時の値段は、今、2倍です。中古マンションは新築の2倍に跳ね上がっとる。
「言うたじゃないか。明石の町の価値を上げれば、儲かるに決まっている」
だからその通りやった。
これが政治です。偶然じゃない。全部読み通りにやる。それをするのが政治じゃないか。それをするのが政治家だ、私はほんまに思ってきた。
■市民のために税金を使えば、市の経済が動く
明石市は何をしたか。市民から預かっているお金を市民のために使う。簡単なことや。そうすると、市民に安心が生まれて、お金が回り始める。地域経済が動くに決まっておる。こういう話や。
この30年間、先進国の中で経済成長もせず、給料も上がっていないのは日本ぐらいや。こんな国、ほかにない。
30年間、給料も上がらんのにもかかわらず、税金がどんどん上がっていく。保険料も上がる。いろんな負担額も上がる。物価まで上がる。もう使う金あらへん。
日本という国は昔、私が子どものころ、国民負担率、税金とか保険料を合わせた負担の割合は2割でした。
10稼いだら10のうち8は自分と家族のために使えて、残りの2をみんなのためにどうぞという国だった。
今は、だいたい5割や。10稼いだって、半分しか使えん。残り半分はみんなのためにどうぞという形で、税金・保険料になってるけど、戻ってきていない。どこに消えとんのや。
日本の国民負担率は今やイギリスより高い。日本は負担の低い国やない。私たち国民は十分過ぎるほどすでに負担しとる。もう十分や、これ以上の負担なんかいるわけがない。
にもかかわらず、政治がちゃんとしてないから、私たちは苦しい。政治が間違っているからだ。
私はずっとそう思ってきた。
でも、明石市長の場合、今言うたテーマでできることは限られています。
もう一回言いますよ。明石市長では給料を上げることは簡単にできへん。国やったらできるけど、明石市長では給料上げられない。税金も下げられない。保険料も下げられない。物価だってさわれない。
■市民の負担を減らす
明石市長が触れるのは、唯一いろんな負担額だ。だから私が市長になってやったことは、負担を減らした。
子どものいる家庭には医療費・保育料・給食費・オムツ代・遊び場などのお金は、「もう負担せんでよろしい、もう前払い済みです」と言った。
無料とは違う。みんなもう、すでに払ってるんだ。みんなは税金・保険料で前払いが済んでいる。だから、2度払いせんでいい。
何のための税金・保険料や。みんなのために使うために税金・保険料があるんだ。
東京でいうたらディズニーランド、大阪で言うたら、USJの年間パスポートを買ったのと同じで、一回行くごとに金を払う人はない。特別展でもあれは、若干金払ってもいいけど。
ベーシックな、当たり前の子育てするのに、お金がかからない町にする。そういう発想や。そういう形で明石が一気に舵を切った。口だけじゃない。ほんまにやった。
石市は人口30万人。1年間で動くお金が2000億。私が市長になる前の年の子ども予算は125億円。だいたい全国平均でした。私の最後の年の、子どもに関連する予算額は297億円。2.4倍に増やした。
市民の負担なんか増やしてない。やりくりや。普通の家庭と一緒。
やりくりして、明石市長の12年間で、子ども予算は2.4倍に増やした。
だからできるんや。口だけやない。金を動かすんや。
私が市長になる前の年の明石市の職員は、人口30万に対し、正規職員2000人ぐらいで、学校の先生を除く子育て支援を担当している職員数は30数名やった。最後の年は150名になってたけど、職員数は増やしていない。むしろ減らしてる。
でも子どもを担当する職員は4倍に増やした。子どものお金を2.4倍にするから、子育て支援ができる。子どもを担当する職員を4倍にするから、家庭訪問できて子どもの虐待を防げる。
当たり前のことじゃないか。それをするのが政治や。
言葉通りの政治をやった。そして、金と人を動かして明石をこどもの町に変えていった。
■12年間の最初は総スカン
ただ、よく聞かれるけど、最初から多くの人が、私の方針に理解をいただいたわけではない。私の12年間は大きく3つに分かれます。
最初の5~6年は総スカン。「変わり者市長」、「何考えてるか分からん市長」と言われ続け、大変やった。
その後、3年ぐらいで、一気に明石市民が応援に変わった。
そして、例の皆さん記憶にあるかも思いますが、私のまさに「事件」があって、いったん辞めました。
あのときから、全国のひとが、「意味わからん」「なんで、あんなむちゃくちゃな市長がもう一回当選、しかも圧勝すんねん」と注目された。
明石はどないなっとんねん、という関心を、お持ちいただくようになり、全国から、逆の意味で注目を受けるようになり、その結果、明石の政策が全国に広がりかけたのが最後の3年ぐらい。
大きく3つに分かれます。総スカンの5~6年、明石市民が一気に賛成に転じた3年・4年、そして全国に広がった最後です。
■子どもを応援したら、みんなが幸せになる
私が市長になった時に大きく3つの反対があった。私は最初から、すべての子どもたちを本気で応援すれば、町のみんなで本気で応援すれば、町のみんなが幸せなると言いました。
子どものいる家庭だけでは違うねん。子どもというのは「ちっちゃい子」って意味じゃなくて、子どもってのは「未来」や、みんなで未来を応援したら、自分は子どもと関係がないように思える人だってハッピーになるというのが、私の哲学です。
私は弁護士だから法学部を出たと勘違いされるけど、40年前、大学では教育哲学をやってたんです。
根っこは哲学です。人の幸せというものをそれぞれどう考えるか、どうすれば人を幸せにできるか、そういった時の政治の役割――それをやっていた立場として思ったのは、子どもこそが未来や、子どもを本気で応援したらみんなが幸せになる。これが根っこの哲学です。
それを最初の選挙の時から言い続けて、12年間、ずっと一貫してやってきた。
■商店街が子ども支援に大反対
でも反対があった。大きく3つの反対がありました。
ひとつ目は、商店街のおやじさんたち。私にこう言った。「子ども、子どもって、何考えとんねん。商店街応援せい」と。「商店街がもうからんかったら、そんなもん意味ないじゃないか」「アーケードを作れ」と言われた。
私は反論した。「アーケード、何べんも作り替えてまんがな。アーケードをきれいにしたからって人来ませんで」
「アーケードをきれいにしたいわけじゃなくて、商売繁盛でしょ。どうすれば商売繁盛するんですか。市民が金を使う必要あるでしょう。市民が商店街にやってきて、市民が商店街で物買って、お金が落ちるからハッピーなのであって、それをしようとしてるんだ」
こう言いました。
それをするのが子ども政策ですと、はっきり言うたけど、誰も理解できない。「意味分からん」って言われた。
でも、実際どうなったか。明石はコロナ禍でも商店街は過去最高利益を更新中で、今もそう。ボロ儲けや。
なんでかというと、市民が金を使えるようになったからや。
■公共事業削減に建設・不動産業界は大反対
2つ目の反対は、建設業界・不動産業界。
たしかに、公共事業を少し減らして、子どもとか高齢者に予算を振り向けた。
その結果、明石は良くなったけど、最初はしんどかったので、公共事業に近しい方々が、私に激怒した。「公共事業を減らしたな」って怒られた。私はこう言った。「残念ながらも、大きな時代状況は、人口も減っていかざるを得ない状況で、財政状況も楽ではない。こんな時に公共事業に寄りかかっていたんでは、商売になりません。明石の町全体をあげます。町すべての底上げを図った方が絶対儲かる。公共事業じゃなくて、民間で儲けてもらえる町にします」
そうしたら、「何を言うてんねん、そんなことをできるか」と言われたけど、実際、いま明石の建設業界は建設ラッシュ。どんどん人口は増え、売れまくってる。実勢価格が2倍に跳ね上がっているから、ボロ儲けや。
いま明石の建設業界、不動産業界ウハウハ状態。
最後、市長を辞めるときこう言われた。「市長、忙しいからな、公共事業なんか儲からんからせんでええ」
■子ども支援に高齢者が大反対
3つ目の反対は、高齢者。
こう言うた。「お前、子ども、子どもと言いやがってって。高齢者を馬鹿にするのか」
「馬鹿になんかしてません。普通にしとるだけ」と言ったら、
「わしらの金取るのか」「私は高齢者の金を取る気はありません。ただ、あまりにも未来である子どもに対する応援が弱すぎる。その結果、お金も回っていないし、少子化になっとるんだから、子どもを最重点化しました。その結果、町が潤って高齢者にもできるようになるから、ちょっと待ってください」と。
待ってもらって、後からするって言ったら、高齢者の方々はみんな怒って、「うそつき」「騙しとんやろう」と言われた。
でも、実際どうなったか。明石は子どもに重点化した結果、どんどん人口が増え、来る人が増え、お金がまわり始め、税収も増え、完全に財政が黒字になった。
70億に減っていた貯金額、100億あった借金、私の12年間で、あれもこれもどれもこれも無償化したけど、隠れ借金100億払い終わって、おまけに貯金も30億増やした。
何の文句あんねん。これが政治じゃ。市民のお金を市民のために使えばいいだけや。金が余っている。
■12年間に、100以上の「全国初」を
私は明石市長12年やって思った。お金なんか余っとる。ないことない。ちゃんと使ってないだけや。
人だって遊んでる。ほんまにせなあかん仕事をしてない。せんでもいい仕事をするから忙しい気がするだけや。
ちなみに、明石市は私の12年間で100を超える全国初の施策をやった。
最初、私が中心になってやったけど、後半からどんどん職員から全国初の方針が上がってきた。
これだけ多く全国初の方針をやりまくってるけど、明石市の職員数は、兵庫県の41ある市町の中で、人口比において最も少ない。少数精鋭や。これを勘違いして、「ブラックちゃうか」と言われたが、違う。
私が市長である時に、残業時間は半分に減った。なぜそんなことができたか。簡単やん。せんでええ仕事をやめさせただけや。
せんでええ仕事とは何か。国が、わけの分からん計画作れ、見もせんような報告を作れという。
私は指示した。「もう作るな。2020年にやって、翌年もやったら、何とか計画2021として、「0」の上に「1」を貼っとけば5秒で終わる。それで出しとけ、そんなもん、どうせ見てないから」と言った。
国が文句をつけたら、俺が戦う。「そんなしょうもない、見もせんような仕事させるな。せなあかんのは、市民のための仕事や。」
「ほんまに市民のための仕事だけやったよろしい。国の顔色をうかがって、国の官僚のために仕事せんでいい」
はっきりそう言って、ばんばん止めた。
各種審議会もばんばん止めた。「そんなもん、大学の先生に集まってもらって、お茶出して議事録作っても、意味がない。ほんまに必要だったら、市長自ら聞きに行く。電話するから、それでよろしい」
審議会もやめてしまえって言って、ほぼ全滅や。そんなん、いらん。聞くのは学者じゃない、聞くのは市民の声を聞く。市民の声をかなえるのが、政治や。学者の、中途半端な頭でっかちの議論はいらん。いるのは市民の切実な声や。私はそう思った。
■市の職員の意識も変わった
明石の職員もどんどん変わっていった。その結果、財政も良くなり、その結果、貯金が増えてきたので、市長時代の後半は、明石では地元を走ってるコミュニティーバスは、高齢者は無料にした。認知症のMRI費用も無料にした。バンバンやる。
明石は子どもだけじゃない。子どもも、高齢者も、障害者も、全国トップレベルにした。
簡単なことや。市民から預かっている金を市民のために戻すだけや。
こう言った。「雇い主は市民やで。市長が職員を雇ってんちゃうで。明石市の職員は全員、市民に雇われてんねん。自分が食わしてもらってる金は、市民の税金や。自分が仕事させてもらってるお金は市民の税金そのものや。市民から10もらって預かったお金を、自分たちの人件費で2~1ぐらい減らしている。10預かっている金を、1使わせてもらってる。残り9や。残り9やったら意味ないやろ。自分たちでものを考えて、知恵出すねん。知恵で1加えて10にする。汗かいで11にする。預かった10の金を1使わせてもらうけど、知恵で1、汗で1出して、11にして戻すねん。そうしたら、市民は、なんぼでも税金預けたくなる。明石に税金預けたら、もっともっとハッピーになるような気持ちになってもらう。それが役所の仕事や」
これを12年間、言い続けてきた。実際、おかげさまで明石市民から「明石やったら、税金を納めたい」と、ほんまに言われる。そういう町を目指してやってきた。
その結果、明石は駅前も賑わい、明石市民が誇りを取り戻した。東京へ行って「どこから来ましたか」ときかれたら、「明石です」とみんな、胸をはって言う。
ただ、残念なことにそう言うと、「ああ、あの口の悪い市長の」とも言われる。それは申し訳ない限りだけど、ただ少なくとも、嘘をついて、「神戸から来ました」とか「神戸の近く」と言うような市民は。ほぼいなくなった。
■市民のために、市民とともに
みんな胸張っている。私たちはこの町を作り替えてきたということや。この町を作るのは大変やったけど、ぶれなかった。
ポイントは大きく2つ。市民のために市民とともにやる。この2つや。誰のための政治か。
どっち向いて政治するのか。見るべきは、市民や。国でもなければ議員でもない。マスコミでもない。全部敵じゃ、そんなもの――悪かった。撤回します。こんなこと言うから嫌われるんやね。ごめんなさいね。
ある意味、私としては市民を信じて、市民とともに町を作り替えてきた。そのためには選挙も大事。私が立候補した13年前の明石市長選挙は、人口30万の明石で得票数5万4062票と、5万0993票で、69票差やった。まさに僅差。相手候補は当時の兵庫県知事が担いだ候補で、各政党全部相乗りだった。業界団体も、商工会も医師会も労働組合も宗教団体も、ごっそり向こうについた。気持ちいいぐらいだった。
記者会見した記者クラブで「泉さん、盤石体制の相手に挑むんですけど、あなたの支持団体は何ですか」と聞かれた。私は即答した。「私の支持団体は市民です」
気持ちよかったね。笑われたよ。その後こう質問があった。「そんなんで勝てますか」
私は啖呵切った。「勝ちます。私が勝つのが、明石の町と市民のためだから、私は勝つんです。大丈夫です」
言い切った。でも危なかった。69票差で、何とか勝って市長になれた。
なってすぐ、先ほどお伝えしたように方針転換をして、明石の町を変えていった。でも、こんなキャラのこういう私だから、ほんまにマスコミも叩き甲斐があって、12年間ネガティブキャンペーンされまくった。
議会も全員敵やった。与党0やった。気持ちいいぐらい、市会議員30人、ほぼ全員、私のことが嫌いな方々で、市役所職員も幹部級も、かなわん市長だって感じだったし、国や県は応援する気はないし。で、マスコミは叩きまくってきたから、もうほんまに四面楚歌。
四面楚歌というけど、歌を歌っている市民は私の味方やってたから、私は市民を頼りに、市民と一緒に作り替えてきた。
■明石の市民は強かった
どう変えていったか。明石の市民は強かった。たとえば、優生保護法に関する条例は、明石が全国初で、今も唯一やけど、優生保護法で被害に遭った、手術をさせられた、もう90歳のご夫婦に対して補償しようと、条例を作った。300万円を明石市が支給する、全国初の条例を作ろうとした。議会は反発して一回は否決になった。2回目も審議もしてもらわれんかった。もう1回出そうとしていたら、市民団体、障害者の関係者がやってきてこう言った。「市長、動くな。市長が動いたら余計に反発を食らう。市長はじっとしとけ。自分たちが議会を説得します」
びっくりした。
そして、障害者団体が市議会に順番に説得に入った。その結果、市議会は反対から賛成に転じて、全国初の優生保護法被害者支援条例が成立になった。忘れもしない、2021年12月21日の本会議。私、思わず本会議場でボロボロ涙が出た。感動した。
この街はすごい。「市長、動くな、市民が議会を動かす」と言って、ほんまに賛成に漕ぎ着けて、全国初の条例を作る町に変わったということに感動した。
もう大丈夫。明石の町は自分がいなくても、市民が強いから、十分にこれからやっていける町だと信じた。
■明石から全国へ広げる
それまで市長になってからやりたかったけど、このキャラだから炎上するのが分かっていて、SNSは一切やってなかったけど、その優生保護法の条例可決を見届けて、これからは明石止まりじゃなくて、明石でできたことはどこでもできる、国でもできると言うためにTwitter(現・X)を始めた。
それから2年ほど経ったけど、どんどん発信していってる。
まさに気持ちとしては、「明石止まり」じゃなくて、「優しい社会を明石から」と思ってきた。
誰もしなくても、明石から始めるだけでなくて、明石止まりじゃなくて、明石から全国に広げる。明石から国を変えていく。そういったことをしたいという思いで、発信をし、本を出版し、今日このように寄せて頂いてる状況です。
今日、私が来ているのは、実は明石市民のためです。私は明石が大好きで、明石と心中したいと思って生きてきた。今も思っている。ただ、明石市長としてできることには限界がある。金も限られてる。権限も少ない。本当は国が変わらなあかん。私たちが住んでいる、この日本という国を、もっとまとな国に変えなあかん。
明石も、日本も、ちゃんとすることが、私に残された明石市民へのご奉公。私は本気でそう思ってる。
■応援団になる市会議員、県会議員を公募し、当選させる
明石のことは去年、私が12年間で市長を辞めるときに、私の後を託す市長にお願いをした。私と違うキャラの市長になるから、さすがに私みたいに全員敵じゃない方がいいと思ったので、応援団も公募をした。明石の市会議員や県会議員に出る人いませんかと聞いたら、70人も手が挙がった。感動したで。公募したの私やけれども、個人である私が公募したら、70人が手を挙げてきて「出たい」と言ってきた。
そこで面接をして、市会議員5人と県会議員1人をお願いをして、「一緒に戦おう」と言って出てもらった。
全員当選した。半端ない数や。全員が無名の新人。公募をしたのが、選挙まで半年きってからで、発表したのが4ヶ月前ぐらい前。県議会議員候補の発表は選挙の1週間前で、無名の新人として34歳の男性が立候補した。
結果は、兵庫県全域でのトップ当選。明石選挙区で3万2000票を取って、2位の自民党候補が1万6000票、ダブルスコアで勝った。
明石の市会議員の候補も5人とも圧勝や。トップ当選したのは3歳4歳のお子さんのいるお母さん。明石の市会議員は1700票で通るのに、1万2000票取った。2位で通ったのは、高校中退をした料理人で、こども食堂とか手伝っている市民活動家で1万票や。3位は不登校の親の会をやってるNPOの女性、小学校・中学校のお母さんが8000票。
軒並み圧勝させた。無名の新人が、心があって、立候補したら、バンバン通す町に変わった。
ちなみに、明石の市長選も私が直前に頼んだ女性の候補が立候補して、対立候補は自民党と公明党と、関西でめっちゃ強い維新の3党が組んだけど、票が開いたら、ダブルスコアや。全政党が敵でも明石は負けへん。
明石市民は明石の町を大好きだから、明石の町のためになる人を選ぶ。そういう町に変わった。
■市民の気持ちが変わった
よく市民にこう言われる。「明石は変わったって言われるけど、何が変わったか。政策も変わったし、町の風景も変わったけど、いちばん変わったのは市民の気持ちや」と、明石市民がよう言う。
いちばん変わったのは明石市民の気持ちが変わった。自信を持った。自分たちが町を作り替えてきた。そういった思いを多くの市民がちゃんと思ってる。
明石でできたことや、そのことを明石市民は誇りに思い、選挙行動を投票行動にもするし、加えて、たとえば明石では、こども食堂なんかも全国で最も早く、全ての小学校区に立ち上がった。
全国初や。そんな町や。こども食堂をしたいと手をあげたら、明石市は任すんちゃう。一緒にやる。こども食堂をしたいという人がいたら、外郭団体という形だけど、応援する団体を作って、そこが場所を探す。
チラシは、明石が責任を持って担任を通してすべての子どもに配る。お金は市が持つ。ボランティアにいるのは気持ちや。それで十分や。金の負担なんてさせへん。金は行政が出せばいい。リスクも行政が負う。何かあったら、行政が責任を負う。場所探しも行政がする。広報も行政がする。
まさに、みんなの助け合いの「共助」、ともに助け合う共助、公助すんね。
「こども食堂を頑張る、皆さんよろしくね」じゃない。ともに頑張ろうや。本来は行政がもっとしっかりしとったら、こども食堂なんかなかったっていいはずや。行政がしっかりしてないから、地域の方々と一緒に子どもを支えてる。
ただ、明石市はこども食堂を始める時に私がこう決めた。こども食堂はなんぼ頑張ったって、毎日ってわけにいかん。月に何回か、週に1回2回やる。そんなんで、子どもの腹が膨らみ続けん。だから明石市が最後の責任を負う。こども食堂は気付きの拠点。こども食堂に来ているけれども、来ない日に腹減らしてる子、来た方がいいけど、親に事情があって、こども食堂にすらこれない子どもの情報をくれ。そしたら、明石市が毎晩メシ食わす。その方針を決め、ほんまにやっておる。
■子どもが腹減らしていたら飯を届けるのが政治
明石市では、児童相談所も作った。児童養護施設も作った。そこで24時間・365日飯食わしとる。
そこの食堂を使って、腹減らしてる子どもの分も作っている。職員がシフトを組んで、晩飯を届けてる。
明石市はたったひとりの子どもも、腹減らしたまま、ひと晩過ごさせんようにする町や。
根性じゃ。それが政治じゃ。子どもが腹減らしとったら飯を届ける。それは政治の責任や――私は本気でそう思ってる。なので、こども食堂をやる人に、その情報を寄せてもらったら、「最後は行政、明石市が責任を負うから一緒に頑張りましょう」というメッセージを出した。
今もずっと続いてる。
いまや明石のこども食堂は、こども食堂だけじゃない。引きこもりの方とか、認知症の方も含めた、地域の拠点に変わりつつある。
どんどん町が強くなっていっている。誰が強くしているのか。市民や。私は声がでかいけど、声がでかいから町が変わったんじゃない。市民を信じて、市民と一緒に町を変えてきた。ほんまにそう思ってる。
■変えるのは、市民
まさにね「変えるのは誰か」。市民なんです。私たちなんです。「誰か」じゃない。
いろんな役割とか、できることに限りがあるにしても、できることはあるんです。
別に、こども食堂をしてくださいって話じゃなくて、まさに、私たちの世の中を変えていけるのは私たち。
そして変えるのはいつか。まさに、今日。ここへ足を運んでいただいた、この時が一番早い。私は本気でそう思っています。
お伝えしたい4点を、もう一回言います。
町を変えることはできる。
政治は誰がやっても一緒じゃない。
政治は誰が政治するかで変わります。
そして、政治が変われば、市民が胸を張れる。子どもたちが笑顔になれるホンマの話です。
■コロナ禍、テナント料を市が払った
最後に、ひとつだけエピソードを言わせください。
コロナの時に明石市長としては、国の顔色をうかがうことなく、まさに町に出た。
その時に商店街のおやじにこう言われた。「市長、見てよ。誰も客おれへん。もう3月は滞納や」
4月10日やった。「4月も客おらんから、多分テナント料を払われん。3月も4月も払われんかったら、もう明け渡しや。市長さん、顔見るの今日、最後かな」そう言って、苦笑いされた。
「市長さんに、テナント料のことなんか言ってもしょうがないな。ただな、うちな、パートさんがひとり親家庭やねん。うちの金で子ども食わしてんねん。でも、客がおらんからもう長く休んでもらうてんねん。金を払われへん。あの家、心配やねん。あの家の子、メシ食えとるか、心配やがな。市長さん、頼むから、腹減らしてる子どもに飯食わしたってや。それぐらいできるんちゃう、市長やから」
そう言われた。私は即答した。「分かりました。テナント料も何とかします。子どもの腹膨らませます」そう言った。
「テナント料、いつまでにいるんか」と訊いた。「いや、そんなことはできないやろうけど、今日が4月10日で締め日が25日だから、4月24日前にあったら助かるけど、ふた月で100万ぐらいかな」
「わかりました。100万ですね。何とかします」
明石市役所に戻って、幹部級の職員を集めてこう言った。
「これから突っ込むぞ。商店街の店が潰れそうや。子どもが腹減らしてる。これまで作ってきた貯金、全部はたいてもいい。全額使ってもいいから、いま助けるねん。市民が溺れかけてる。これを助けるのが、市役所の仕事や。ともに頑張ろう。予算を組んでくれ」
そして、その足で明石の市議会の議長室に行って言った。「頼むから、私のことが好きか嫌いか知らんけど、もう市民が溺れかけてる。臨時市議会、立ち上げてくれ。予算を審議してほしい」
その後、すぐに銀行に電話した。近くの銀行に、準備してくれ、4月24日にちゃんと100万を振り込んでほしいと頼んだ。銀行は手続きを始めてくれた。
実際どうなったか。明石市はすぐに議会が立ち上がり、予算案出し、通って、4月24日に明石市内の500ぐらいあるテナントに全部、100万円、振り込んだ。おまけに子どもにも児童扶養手当に5万上乗せした。
全国初や。助ける気になったら助けるに決まってるじゃないか。
それが政治や。2週間で100万振り込める。それが政治だと思う。
■コロナ中退をさせない
その後、5月になったら「コロナ中退」が言われた。せっかく高校を卒業して行きたいから大学行ったのに、学費が払えない。親がリストラ、子どもの方もバイトができない。4月を越えて滞納期限が来て、滞納になってしまって、5月にコロナで中退を迫られた子どもたちがいっぱいおった。
明石市、何をしたか。親が払われんかったら、明石市が払う。明石市が親代わりや。
実際、何をしたか。明石市は大学生・大学院生・専門学校生に上限100万で、立て替えて大学の口座に振り込んだ。
電話しまくった。市役所職員が関西の大学へ電話して「あなたの大学の中で、明石市民で滞納してる子どもいませんか。もしいたら、代わりに明石市が払うから、やめなくていいと伝えてほしい」
160人の大学生に対して、上限100万で明石市が立て替えた。
中学3年生が、高校行きたかったけれど、行く金がない。ひとり親家庭とかでお母さんが、たとえば夜のお仕事してた時に、夜が閉まってしまって、金が入らない。そういうご家庭で、中学3年生がもう高校進学断念しかけた。なので私は「断念するな。大変だったら、今回は貸し付けじゃなくて、全部市が持つから高校行け。高校行きたかったらちゃんと行け。金は明石が全部持つから行け」こう言った。
ただそんな子らは、勉強してない子も多い。なので半年前から勉強せえという形で、半年間、毎週週2回、大学生が学習支援をする金も市が持った。
おまけに高校入ったらすぐにやめる子も多いから、せめて毎月報告してくれ、1か月1万円の小遣い渡すから、3年間頑張れと言った。
3点セットや。高校の入学金などは行政が全額持つ。半年前から学習支援する。そして入った後、3年間小遣い1万、合計36万渡す。
これをすぐ臨時市議会立ち上げて、それもやった。
私は読み外した。明石の対象学年の中3は2700人なので、1%ぐらいかと思って30人の定員で、制度設計したら、募集をかけたら30人で収まれん。結局220人になった。
「え、そんなよく来たのか、ちょっと家へ持って帰るわ」と言うて、その220通の応募書類を家に持って帰って全部読んだ。ぼろぼろ涙が出てきた。何が悲しかったって、みんな漢字間違えてる。こんな大事な書類で、自分の名前も間違えるか、漢字間違えるかって。そんな漢字を間違える子どもたちが、それでも高校行きたいからお願いしますと言っている。私は、ぼろぼろ涙を流して、その場で決めた。全部救う。
また、臨時市議会立ち上げ直して30の定員を220まで増やした。
全員救う。溺れかけている子どもがおったら救うのが政治だ。まさに、それが政治だと思ったからや。
おかげで市議会も、勢いに押されたのか全会一致の賛成で通してくれた。
220人全員を「高校行け」と言うて応援した。
その結果、うれしい話が昨年末だった。どんな話か。ちょうど去年の暮れに市長を辞めて、半年経った頃ぐらいに明石の駅前で晩飯食ってたら、そこで働いてる高校生くらいの女の子のアルバイトが、私がメシ食ってお金レジで払って出掛けた時に後ろから走ってきた。お金足らなかったかなと思ったら、そうじゃない。私の後ろから走ってきてこう言うた。
「泉さん、お礼を言わせてください」「え、どうしたん」
「私、泉さんのおかげで、高校、今行けています。あの時、お母さんと二人で、もらえるかなどうかなと不安だったんですけど、ちゃんと明石市に応援してもらえたんで、受験もできたし、今高校通ってます。でも、お金足らんから、こうやってバイトしてるんです」
そう言われた時に私も本当に嬉しかった。
これが政治や。あのとき、30の定員で切ってたら、多分、その子は30に入らん子やった。それを拡充して220にしたからこそ、その子は多分、高校に行けてるんだろうと、私は思うた。
これがまさに政治だと思う。見るのは国の官僚やお上じゃない。見るのは現実、現場や。市民国民の生活や。そこを見て、そのためにやれることをするのが、まさに政治――そのことを感じた次第です。
これぐらいで休まんかったら、皆さん息ができないと思いますので、いったん、これで前半の話としてもらいます。ありがとうございました。