ウクライナ戦争から考える正義、平和、人道
「ネガティブ・ケイパビリティ」の重要さ
【続いて、三牧聖子さんのお話です。荒巻さんは「マシンガントーク」と紹介していましたが、その通りの、言葉の連射の講義となりました。
講演のタイトルは、「ウクライナ戦争から考える正義、平和、人道ー「ネガティブ・ケイパビリティ」の重要さ」です。聞き慣れない、「ネガティブ・ケイパビリティ」とはどんな考え方なのでしょうか。
三牧さんもスライドを使用しての講演でした】
■「平和」と「正義」は両立しないのか
アメリカ政治外交を研究しています。アメリカ外交のなかで、戦争が合法だったものが、どういう力によって違法なものになったかを博士論文にして、研究者となりました。
本日は、その違法となったはずの戦争が、しかし残念ながら起きてしまっている。このことを、みなさんと一緒に考えてみたいと思っています。
合法か違法か――私たちが国内で生きていても、違法だけど正しいこともあるし、政治の世界では、合法だけど道義的に正しくないことも起きています。
「合法イコール正しい」とならないかもしれない。
法と道義的な正しさは分けて考えるべきかもしれません。
そこで、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を踏まえて、ウクライナ戦争を考えてみます。
この言葉はもともと、詩人のジョン・キーツの言葉で、
容易に答えが出ない事態について、性急に事実の解明や理由を求めず、
不確実さや懐疑の中にいることができる能力。
という意味です。
ネットを中心にいまの世の中は、「自分は正しい」「相手は間違っている」「白黒はっきりつけたい」ということになっています。
「まず、相手の言うことをよく聞いて、その上で議論する」ということが、成り立たない社会です。
戦争というのは、容易に答えの出ない事態です。そうなったとき、性急に事実の解明や理由を求めないことが大事だと思います。
シンクタンクEuropean Council on Foreign Relationsが2022年6月に行なったアンケートの結果があります。ヨーロッパ各国の人に対してウクライナの戦争について質問したものです。
ウクライナがとるべき道は、どちらか。
1つは、人が死んでいるわけですから、とにかく戦争を止めること、停戦を優先する「平和」を求めるか。
もう1つは、とにかくロシアが悪いのだから、ロシアへ経済制裁などの懲罰をすべきだという「正義」を求めるか。
「平和」派が一番多いのはイタリアで52%、「正義派」は16%でした。
「正義」派が多いのはポーランドで41%、「平和」派は16%でした。
しかし、立ち止まって考える必要があります。そもそも、ウクライナ戦争に関して「平和」派か「正義」派か、という二項対立的な問いの立て方そのものがどうなのでしょう。
■「平和」と「正義」は両立しないのか?
ここで、ノーム・チョムスキーという、世界秩序や時事問題についても活発に発言もしている著名な言語学者と、ヘンリー・キッシンジャーという現実主義派の国務長官を紹介します。
単純に言えば、キッシンジャーは右派、チョムスキーは左派の代表的な人物と言われているのですが、この二人はウクライナ戦争については、「とにかく、まずは停戦すべき」という点で一致しています。
とくにチョムスキーは、
「汚い平和でも正義の武力に勝る」
と言い切りました。その考えとは、
「ゼレンスキーを批判するわけではない。しかし、世界の現実に目を向ければ、選択肢は2つだ。
1つは、ウクライナ人の徹底抗戦を支援すること。この選択肢は核戦争の危険を伴う。
もう1つは外交的解決となる。その交渉は『汚い』ものとなるだろうが、ウクライナと世界を破滅から救うことができる。交渉の基本枠組みは、ウクライナの中立化、高度な自治など、ドンバス地域に関するウクライナの譲歩といったものになるだろう。」
このようなものです。
チョムスキーは、さっきの荒巻先生の分類では、無制限戦争観に近いかもしれません。
この考えに対して、アメリカのウクライナ系経済学者らから連名で「ノーム・チョムスキー(と似た考えを持つ知識人)への公開書簡」という形での反論が出されました。
「あなた(チョムスキー)は、ウクライナの主権的一体性を否定し、ウクライナを地政学的なチェス盤の上のアメリカの駒として扱っている。領土を割譲しての平和なんて、あなたがアメリカにいるアメリカ人だから言えるのです。
私たちは皆、停戦と交渉による解決を強く望んでいますが、ロシアの行動を見てください。民間人、病院、そういったインフラを破壊している相手と、本当に外交で平和なんて交渉できるのですか。つかの間の平和が実現したとしても、また機を見て攻め込んでくるかもしれない。それだったら徹底的に戦って、ロシアをある程度まで弱めなければいけない。
そういう戦争まで、あなたは否定して、『汚い平和』のほうがいいと言うのですか。」
みなさん、どう思われますか。
チョムスキー氏の言う、「とにかく戦争を終わらせなければならない」という考えも分かります。命より大切なものはない。領土を失ってでも平和を求めるべきなのかもしれません。しかし、今のロシアをみていると、一定の領土を割譲すれば、「汚い平和」を得られると考えることすら、夢想的にも思えます。
正義を犠牲にしても平和を得られる保障はない。ここにあるのは本当に難しい問いです。
だから、ネガティブ・ケイパビリティが重要なのです。
当のウクライナ国民の世論を見てみましょう。
【スライドにはこうあります。
キーウ国際社会学研究所が2022年5月にウクライナ国民2000人を対象に実施した調査によると、82%が「戦闘が長期化しても、ロシアとの交渉で領土を割譲すべきでない」と回答し、「和平のための領土割譲を容認できる」と答えたのは10%。
2022年10月の調査でも86%が「ミサイル攻撃が続いてもロシアと戦い続ける必要がある」と回答】
■平和は武器だけでもたらされるのか?
欧米はウクライナへの戦車の提供を決定し、すでに戦闘機の提供という議論に入っています。それらの武器はウクライナの抗戦を支えている一方で、報道はこのような様子も伝えています(アメリカのCNN2023年1月16日記事)。
「ウクライナはいま『兵器の見本市』になっている。
戦争で『太る』人たち 『戦争は軍需産業の在庫一掃セールか』」
たしかに、ウクライナへの軍事支援が軍需産業を利しているところはあります。
しかし、そこだけを見て、軍需産業を利するだけだから軍事支援を止めるのがいいのか。
果てしない武器支援の果てに、本当に平和は来るのかは疑問です。かといって欧米諸国が武器支援を止めたら、ウクライナの人々はどうロシアに立ち向かえるのでしょうか。領土も自由も諦めるしかないのか、それで平和は訪れるのか。本当に難しい問いがあります。
戦争は多面的です。
ですから、戦争と平和を考える際に、白黒はっきりしない問いを、その曖昧さに耐えながら根気強く考え抜く力として、「ネガティブ・ケイパビリティ」が重要だと強調したいのです。
■ウクライナ市民の抵抗を美化する危うさ
日本の政治家は、ウクライナの戦争をどう見ているのでしょう。
日本の市民の間には、「ウクライナの人たちは自衛戦争を戦っているから、さまざまな支援をしよう」と支援の輪が広がっています。
政治家たちからも、ウクライナ支援について前向きな姿勢が示されてきました。これ自体は素晴らしいことだと思います。他方、気になる言動もあります。
たとえば、2022年3月23日に、ゼレンスキー大統領が日本の国会でオンライン演説をした際の反応で気になる発言がありました。
山東昭子・参議院議長は、
「閣下(ゼレンスキー大統領)が先頭に立ち、貴国の人々が命をも顧みず、祖国のために戦っている姿を拝見して、その勇気に感動しております」
と述べたのです。
ウクライナの人たちが、やむにやまれず行なう自衛戦争を理解し、支持するのと、それに対して「感動する」のとはかなり違う性質のことだと思います。またそうした発言が、政治家から出てくることも気がかりです。
ウクライナの人たちは、こんなことにならなければ戦いたくないはずです。そうした複雑な感情を「愛国心」のようなものに勝手に美化して「感動しています」と言うのはどうなのでしょうか。こうした発言には、日本国民もまた、命を賭して国を守る「愛国心」を持つべきだといった意図が透けて見えます。
岸田首相は、2022年12月16日、「安保3文書」の決定を表明した際の記者会見で、
「われわれ一人一人が主体的に国を守るという意識を持つことの大切さはウクライナの粘り強さがよく示しています」
と言いました。
ウクライナは粘り強く戦っています。しかし、日本の安全保障政策を説明する際に、自分の政策を正当化するために、安易にウクライナのことを持ち出していいのでしょうか。
2022年6月8日の朝日新聞には、「18~60歳の男子の出国が禁じられたウクライナで、出国する自由や『前線に立たない自由』を求める市民たち」についての記事が載っていました。そういう人たちもいるのです。
そういう思いを抱えながら、戦っている人もいるのです。そうした複雑な事情を過度に単純化し、さらには自分たちの主張する政策を正当化するような文脈で言及することには、やはり慎重であるべきではないでしょうか。
■グローバル・サウス諸国が追求する「平和」
ロシアへの対応で、国際社会は分かれています。ロシアへの懲罰として制裁を加える日本をはじめとするG7諸国。そして、ロシアの侵攻は非難しつつも、制裁には加わらない国々。数としては後者が圧倒的に多いです。
とくに「グローバル・サウス」と呼ばれる南半球の新興国は、ほとんどが制裁には加わっていません。
彼らはどのような平和を追求しているのでしょうか。それを代表するのが、昨年のG20議長国のインドネシアのジョコ大統領の、
「戦争を終わらせなければならない。世界を二つに分断すべきではない。新たな冷戦になってはならない。」
という発言です。
今年の議長国のインドのモディ首相も
「あくまで、大国間の対話、それによる停戦を模索していく」
と、ロシアの侵攻を批判しつつ、対話も試みていくという立場を明確にしています。
■ウクライナ戦争で見えた人道のダブルスタンダード
本日のテーマとは少し外れるかもしれませんが、人道のダブルスタンダードについても、アジアの一国として指摘したいと思います。
ウクライナ戦争を目撃した欧米メディアは、特に侵攻の初期、
「わたしたちみたいな青い目の金髪の人々が攻撃されるなんて」と、欧米の人々が無意識に抱いているレイシズムを交えた報道をしてきました。
そこに、欧米の人道のダブルスタンダードが見えます。
「ヨーロッパ人が殺されていること」に、衝撃を受けているのです。ヨーロッパ人以外の人の命は軽いとは言っていませんし、悪意もないとは思います。しかし、なにかひっかかるものを感じます。
アフガニスタンやミャンマーなど、非西洋世界の人道危機は顧みられません。国際的な関心と同情が集まるウクライナとはまったく異なる国々――もちろんそのことについて、ウクライナの人々はまったく責任はありませんーーがある、それが国際政治の実情です。
たとえばアメリカも、中南米の難民は厳しく排除していながら、ウクライナからの難民は歓迎しています。2015年にシリア難民危機が起きたときは、受け入れの支持は37%でしたが、ウクライナ難民に関しては、8割近くの人が「受け入れるべきだ」と答えています。
■中村哲さんの問題提起
欧米でウクライナ危機にばかり注目され、他の人道危機が見過ごされているなか、日本はどうすべきなのか。
これを考えるとき、私は中村哲さんに立ち返ります。
中村さんは長年、アフガニスタンで人道支援に携われていましたが、現地で命を落としました。
いま、中村哲さんがアフガニスタンに注いだ視線を思い返したい。
アフガニスタンの人道危機は、2001年に同時多発テロを受けたアメリカが攻撃したことで決定的に悪化しました。
ここにアフガニスタンの人々の犠牲の数と、それがアメリカで報じられた数のグラフがありますが、犠牲が増えていても、関心が寄せられなかったことが分ります。
非西洋の人道危機には無感覚なのです。
いま、確かにアフガニスタンのタリバン政権が女性の人権を抑圧しており、欧米を中心に批判が高まっています。しかし、タリバン政権に対してアメリカが経済制裁をしていることで、国民生活が混乱し、国民の半数相当が飢餓状態にある。これも現実ですが、こういう危機は全然、報じられていません。
中村哲さんは
「暴に対して暴を以て報いるのは、我々のやり方ではない。
水が善人・悪人を区別しないように、誰とでも協力し、世界がどうなろうと、他所に逃れようのない人々が人間らしく生きられるよう、ここで力を尽くします。内外で暗い争いが頻発する今でこそ、この灯りを絶やしてはならぬと思います。」
と言われていました。
だから、タリバン政権とも話し合いをして人道支援を続けました。現地の人々を救うために必要だったからです。
中村さんは「国際社会」とか「日本」とかいう大きな主語ではなく、「自分」は何ができるかを考えていました。
これは中村さんの哲学ですが、日本としても、人道を考える際に依拠していい立場ではないでしょうか。
中村さんは最澄の言葉、
「一隅(いちぐう)を照らす」
という立場をとっていました。
世界中を豊かにするだとか、全人類を救うだとか、そういうことではなくて、一隅、自分の身の周りから照らす、自分のできることをする、そういうことを中村さんは数十年間してきて、その結果、中村さんがつくった用水路で実に65万人の命が救われたといわれています。
ですから、ウクライナの危機を考えるときも、「日本が何をすべきか」のような大きな主語で語られがちですが、まず、「私たちはどう考えるか」「私たちは何をすべきか」を問うべきだと思います。
それは、小さいことだけで留めろということではありません。中村さんの業績が示すように、そうした小さな日々の努力が積もり積もって大きなことを成し遂げることにつながる、ということなのです。
【三牧さんの講演では、次から次へと、さまざまな人の発言、考えが紹介されていきました。
考えたこともない視点からの意見もありました。
戦争を、単純な二項対立で考えることの危険が、よく分かりました。
この後、おふたりが、会場の参加者とともに議論していきます】
討論編に続く