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【活動報告】第13回「世襲政治を斬る!」講演篇

第13回は「世襲政治を斬る!」と題して、菅伸子さんと作家・中川右介さんという異色のコンピの登場となりました。

菅伸子さんは、元内閣総理大臣・菅直人さんの「家庭内野党」として知られています。菅直人さんの選挙区では、ご本人よりも有名なくらい。

中川右介さんは、クラシック音楽・歌舞伎・映画・マンガ・歌謡曲などのジャンルの本を80冊あまり書いている作家で、菅直人・伸子さんとは40年来の親交もあります。

今回はサブタイトル「歌舞伎の世襲とどう違うのか」とあるように、政治の世襲を語るだけでなく、歌舞伎の世襲との比較もしてみようとの試みでした。

開場すると、壇上のスクリーンには、歌舞伎の映像が流れており、開会までの時間も退屈させないようにしました。いつもの武蔵野政治塾とは異なる雰囲気のなか、14時に始まりました。

総合司会は、運営委員で都議会議員の五十嵐えりさん。

コーディネーターは武蔵野市議会議員の深沢達也さん。

客席には、菅直人衆議院議員もいることが、五十嵐さんから紹介されました。

 

まず、深沢達也さんから、中川右介さんの紹介。

「彼が大学生の頃、もう40年以上前に、私の最初の選挙を手伝ってもらいました。

昨年出された『国家と音楽家』という本を読んでいたら、今度は『世襲』という本を出され、これは非常に新しい視点で書かれてるので、ぜひお話ししていただこうと、今回の企画になりました。」

 

【中川右介さんは80冊あまりの本を書いています。深沢さんが紹介したのは、この2冊です。

『国家と音楽家』(集英社文庫)

『世襲 政治・企業・歌舞伎』(幻冬舎新書)】

 

深沢達也

私も長く政治をやってきましたが、政治で一番大事なことは、戦争にしないということだと思ってます。平和のときこそ、です。ただ、緩めてはいけない。ところが、近年の傾向は皆さんご案内の通り、世界中が覇権主義となり、そのなかで日本は増税をしてまで軍拡の道へ進もうとしています。

これはどうなっているんだろうと、思っていたときに、この『世襲』を読んで、ああそうかと思い当たりました。戦前の日本の総理大臣は、ひとりも世襲政治家はいなかったんですね。

ところが、戦後は総理大臣の75%が世襲政治家であった。

これだ、と思ったんです。今日はそこのところを、語っていただきます。

菅伸子さんについては、改めてご紹介するまでもないと思いますが、菅直人さんの『家庭内野党』でいらっしゃいます。

 

【おふたりの紹介につづいて、菅伸子さんから、最近の政治について思うことを語っていただきました。】

 

■安倍政権以降、有事が当たり前のようになってきた

 

菅伸子

今の政治を、ということですね。

民主党を「悪夢のようだ」と散々言った安倍さんになってから、本当にひどいことになりました。森・加計・桜もさることながら、2015年の安保法制から、今のこういう戦争へ戦争へという流れが始まりました。

安保法制のとき、「あの法律は憲法に抵触するのではないか」と内閣法制局長官が言ったら、安倍さんは、その内閣法制局長官をクビにして、小松一郎さんという外務省の役人を長官にしました。(注・外務省出身者が法制局長官になったのは初めて)

首相は全部の人事権を持っているからすごいですよね。

こういう人事があって、法律を通してしまった。そのときに、菅直人のよく知っている方から電話があり、「こんなことをしたら、日本は大変なことになりますよ」と言われました。

あの辺からです。今まで自民党でもあそこまで抑制が効かない政権はなかったのに、それがずっと暴走し続けて、しかも人気があって、選挙も何度もあったのに、続いた。

そして去年ぐらいから、ウクライナの戦争もあって、何となく有事が当たり前のような形になってしまう。

考えてみたら、私が生まれたあと、朝鮮有事もありましたけど、日本は出ていかなかった。あのときは自衛隊もなく、警察予備隊でしたからね。それが自衛隊になりましたが、ベトナムの有事のときも、日本は行っていません。韓国は兵隊を出して、ずいぶん亡くなっています。

日本は、有事になっても出せない。うちは武器を持っている人は出せない。これが、日本の憲法なんです。それを打ち破っていこうという力が強くなって、どんどん悪い方向へ行っている感じがします。

中村哲さんがまだお元気な頃に、国会に来て話されたときのことが忘れられません。こういうことをおっしゃいました。

「自分の親がアメリカ兵に殺されたら、子供はみんなタリバンになるんです。絶対に日本は武器を持ってアフガニスタンへ入らないでください」

本当に、そのとおりと思います。

だから、武器を持っては行かない、違う支援をしなければいけないのに、今や軍艦まで作って売ろうかというようなことまで言われています。非常に危険です。

ここにいる方は、多分そういうことに反対の方が多いと思いますが、やっぱり選挙なんですよね。首相を選ぶのも選挙です。

統一地方選があります。ぜひ、原発反対と戦争反対の人を選んでいただきたいと思います。

 

 

【続いて、中川右介さんが、『世襲』(幻冬舎新書)にある家系図を見せながら、戦後政治がどのように特定の一族によって支配されていたかを解説しました。以下は中川さん自身が当日の録音をもとに、まとめたものですが。家系図を掲載できないので、かなり補っていただきました。】

 

 

■岸田政権は閣議決定どころか、家族会議で物事を決めている

 

最初に、いまの総理大臣、岸田文雄さんですが、世襲の3代目であるだけでなく、実は、宮澤喜一さんの親戚なんです。

岸田首相のお父さん(岸田文武、衆議院議員)の妹(怜子)が、宮澤さんの弟(宮澤弘、県知事、参議院議員)と結婚しています。

だから、岸田首相の叔母さんの夫の兄が、宮澤喜一さん。

それで、宮澤弘さんと怜子さんの息子が宮澤洋一さんで、岸田首相とは従兄弟同士になります。洋一さんは、東大を出て大蔵省に入り、伯父である宮澤喜一さんの地盤を継いで衆議院議員となり、いま、自民党の税制調査会長をしています。

よく、「岸田政権は閣議決定だけで物事を決めてけしからん」と言われますけど、そうじゃないんです。従兄弟同士で、いわば家族会議で決めてるんです。

「洋一ちゃん、増税しなきゃ駄目じゃないかな」「文雄ちゃん、君はいいこと言うね、増税は嫌われるけど、決断しなければ駄目だよ」「そうか。やっぱり増税するよ」

なんて、こんなことを従兄弟同士で話して、決めている。

さらに、岸田さんは財務省に人脈がないので、「洋一ちゃん、日銀総裁は誰がいいかな」と宮澤洋一さんに相談して、今度の日銀総裁が決まったんです。

 

さらにこの岸田・宮澤家の一族は、総理大臣だった鈴木善幸さんとも親戚なんです。

鈴木善幸さんの息子の鈴木俊一さん(衆議院議員)が、ちょっと遠いのですが、宮澤喜一さんと姻戚関係にあります。

喜一・弘兄弟のお母さん(宮澤こと)は、小川平吉という長野県の政治家一族の娘で、その兄弟のひとり、小川平五さんの娘の敦子さん(宮澤喜一の従妹)の夫が、鈴木俊一さんです。

宮澤喜一さんとは義理の従兄弟となります。

その鈴木俊一さんが、いま、岸田内閣で財務大臣です。総理大臣と財務大臣と税制調査会長が親戚ということです。日本のいまの税制は、この3人の親戚同士で決められている。

閣議決定どころじゃないんです。家族会議で決まっています。

「来年はおじいちゃんの13回忌だけどどうしようか」というようなことを家族会議で決めるのは構いませんけれども、増税とかを家族会議で決めてもらっては困る。

世襲が続くと、政治家の子同士が結婚するので、タテだけでなく、ヨコにも広がってき、親戚だらけになります。

 

■岸田、宮澤、鈴木(善幸)、麻生、吉田、岸、佐藤、安倍は親戚だった

さらに驚くべきことに、鈴木俊一さんのお姉さん(千賀子)は、元総理で、安倍政権でずっと財務大臣をしていた麻生太郎さんと結婚しています。

だから、鈴木俊一さんと麻生太郎さんは義理の兄弟。いまの財務大臣と、元財務大臣が義理の兄弟なわけです。それで義兄弟同士で、「太郎さん、増税しないといけないですかね」「増税は人気無ないけど、やんなきゃだめなんだよ」とか、相談しているんでしょう。

麻生太郎さんは、ご存知のとおり、吉田茂の孫ですね。吉田さんの娘(和子)が、麻生太賀吉さん(衆議院議員)と結婚して、太郎さんが生まれました。

麻生家は九州の財閥です。吉田茂はお金を作らないという条件で総理大臣になったんですが、お金出なしでは政治はできません。でも、吉田さんはお金がない。それなのに吉田学校という派閥を維持できたのは、麻生太賀吉さんが面倒を見ていたからです。

だから麻生太賀吉さんは、吉田茂が総理大臣を辞めたら、自分もすぐに国会議員を辞めてしまい、会社経営に専念します。政治に何の未練もなかったようです。

麻生太郎さんは、二世政治家で、かつてお父さんの太賀吉さんが出た選挙区から出ていますが、何十年も空白があります。

麻生家は炭鉱から始まって、いまはグループ企業がいくつもある大財閥です。でも、太郎さんは、長男なのに事業は継げなかった。弟さんが継いでいます。

多分、お父さんは、太郎さんに会社を任せたら潰れるかもしれないので、それは困るので、政治家にさせたんでしょう。そういう人が政治家になって、国が潰れたらどうするんだってことですが、総理大臣にまでなってしまいました。

ここまでで、岸田、宮澤、鈴木、麻生、吉田という5人の総理大臣が、ひとつの家系図にいることが分かりました。

それだけではないんです。

実は、吉田茂と、岸信介・佐藤栄作兄弟も親戚なんです。安倍晋三さんもその一族。

つまり、8人の総理大臣が、ひとつの大きな家系図のなかにいるんです。親戚なんです。

戦後77年間で、この8人で35年間政権の座にいます。約半分です。

戦後、自民党がずっと政権を取っているどころじゃなく、吉田茂を頂点とした大ファミリーが日本の政治をずっと動かしていて、たまに、他の人が政権につくけど、それはだいたい短命に終わっています。それが、日本の戦後政治の実態です。

いま、何人も出てきたので、一度には覚えられないかもしれませんが、これだけ覚えてください。

戦後、吉田茂から今の岸田さんまで33人の総理大臣がいて、そのうちの8人が親戚である。

 

 

■岸田内閣の20人の大臣中9人が世襲議員

 

次に、いまの岸田内閣の20人の大臣を見てみます。

【★表1】

 

そのうち9人がいわゆる世襲議員です。自分か配偶者の親族に国会議員、衆議院議員がいて、その選挙区を継いだ人たちです。

それ以外にも、世襲議員ではないけど、親戚に政治家のいるグレーゾーンの人が4人います。

これが岸田内閣の実態です。つまり自民党の縮図ですね。

 

 

■世襲議員の定義

 

ここで、「世襲議員の定義」をしておきましょう。

これは私が決めたんではなくて、マスコミとか学会が決めた定義で、さらにかつての民主党が決めたルールでもあるんです。

「現職議員の配偶者および3親等以内の親族が、その選挙区から、連続して立候補する」

そうして当選した議員を、「世襲議員」といいます。

「政治家の子」であるだけでは、「二世議員」ではありますが、「世襲議員」ではないんです。

たとえば、菅直人さんの息子の菅源太郎さんは、直人さんの選挙区とは全然関係ない岡山県から立候補したことがありますが(落選)、それで当選しても世襲議員ではなかったわけです。

武蔵野市の隣の杉並区を選挙区としていた石原伸晃さんも、石原慎太郎さんの息子だけど、選挙区は違うので、二世議員ですが、世襲議員ではありません。

そういう厳密な定義にあてはめても、岸田内閣は20人中9人が世襲議員です。

 

世襲議員の話をしますと、「世襲を禁止すればいいじゃないか」と言う方がいます。

ところが、そうはいかないんです。

憲法14条に「全て国民は法のもとに平等であって、人種、信条、性別社会的身分または門地により政治的経済的または社会的関係において差別されない。」とあります。

「門地」とは「家柄」です。要するに、「この家柄の人は駄目だよとは言えない」というのが憲法です。

さらに憲法44条では「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない。」とありますから、この条項がある限り、世襲議員を法律で禁止することはできません。

だから、有権者が判断するしかない。あるいは各政党が判断するしかないわけです。

かつての民主党は、自分たちのルールとして、

【以下の三要件を満たす立候補は認めない

現職議員の配偶者及び三親等内の親族であること。

当該議員の引退、転出に伴って連続立候補をすること。

同一選挙区から立候補すること。】

と決め、そういう人は公認しませんでした。

このルールがあったので、親の選挙区からの立候補を断念した人もいます。

でも、でも残念ながら今の立憲民主党にはこのルールありませんので、世襲議員がいます。

この件では、自民党のことだけを批判できません。

 

 

■戦後の33人の総理大臣のうち、25人は親族に国会議員がいる

 

岸田首相を中心にした巨大ファミリーがあり、そこに8人の総理大臣がいることと、いまの岸田内閣は20人中9人の世襲議員がいることを紹介しました。

では、戦後の歴代の総理大臣を順番にみていきます。

 

【★表2】

 

右が昭和、左が平成・令和です。

グレーのところが、総理大臣本人。左が親、右が子となります。

たとえば、吉田茂はお父さんとお兄さん、さらに奥さんのお父さんが国会議員。さらに、娘婿と孫も国会議員、ということがわかります。

この表で、右も左も空欄なのが、世襲とは縁のない政治家で、8人しかいません。

逆にいえば、33人中25人、約75パーセントが、親族に国会議員のいる政治家です。

世襲とは関係ない総理大臣は、昭和では、社会党の片山哲さん、早稲田出身でジャーナリストだった石橋湛山さんの2人。

どちらも短命内閣でした。

平成になると、海部俊樹さん、村山富市さん、森喜朗さん、菅直人さん、野田佳彦さん、菅義偉さんの6人。だから、合計8人です。みな2年以内の短命内閣でした。

森さんはお祖父さん・お父さんとも石川県で長年、村長や町長をやっていた地方政治家でした。菅義偉さんも青森県で、お父さんが町会議員でした。菅直人さんは、妻の伸子さんのお母さんが岡山で町会議員をしていました。そういう意味では親族に地方政治がいます。

森さんはお父さんが町長をしていた所から出ていますが、菅直人さん、菅義偉さんの二人は、関係のない所から立候補しています。

8人のうち、石橋、海部、森、野田の4人は早稲田出身。一応、なんとなく、在野精神が残っている感じです。早稲田で世襲議員なのは、岸田さんだけですね。岸田さんは東大を3回落ちて、さすがに3浪はさせてもらえず、やむなく早稲田に行ったそうなので、もともと早稲田的ではないんでしょう。

 

 

■吉田茂と岸信介・佐藤栄作は親戚

 

吉田茂についてみていきます。

娘の和子さんが麻生太賀吉さんと結婚して、太郎さんが生まれた。これはよく知られているので驚きはないのですが、よく見ると、吉田茂と岸信介・佐藤栄作兄弟は親戚なんです。これはけっこう衝撃ですね。

戦後の自民党は、吉田茂を原点とした宏池会と、岸信介を原点とした清和会の2つの流れがあって、それぞれの間で擬似的政権交代をしていたと、よく言われます。

たしかに派閥の歴史としては、それは正しいのですが、それだけでは見えない。

吉田茂と、岸信介は、血の繋がりはないんだけれども、親戚関係にあるわけです。

さらに、岸信介の実弟である佐藤栄作は、吉田学校の優等生でもありました。

つまり、昔のエスタブリッシュメントは、どこかでみんな親戚として繋がっているんです。

政治家だけでなく、財界ともつながっています。

説明しますと、吉田茂の娘の桜子さんの夫が、吉田寛という人で、この「吉田」は偶然一緒なだけで、親戚ではありません。

吉田寛の母・さわは、佐藤信彦の娘で、そのお姉さんの茂世さんの子が、岸信介と佐藤栄作となります。岸家と佐藤家の関係は複雑なので、あとで詳しく話します。

つまり、岸信介から見ますと、母の妹(叔母)の子(従兄弟)の妻が吉田茂の娘ということです。

 

結局のところ、宏池会・清和会での政権交代説というのは、源平交代説が今は否定されているように、真っ赤な嘘であり、結局はひとつの巨大ファミリーによる政権が続いていると言えます。

 

 

■最初の世襲総理は、鳩山一郎

 

では、吉田茂と対立していたとされる鳩山一郎さんは、どうなのか。

実は、鳩山一郎こそが最初の世襲政治家の総理大臣と言えます。

戦前の総理大臣には、世襲政治家はいません。貴族院議員はほとんどが世襲だし、衆議院議員のなかにも世襲はいましたが、総理大臣はいません。もともと、衆議院議員で総理大臣という人そのものが少ないということもあります。戦前は議院内閣制ではありませんから。

終戦時の首相は鈴木貫太郎、それから東久邇宮稔彦王、そして幣原喜重郎と短命の政権が続きました。この3人も父も子も政治家ではありません。

鳩山一郎さんの和夫さんは弁護士でもあり政治家でもありましたが、55歳で亡くなってしまい、一郎さんが文京区の地盤を継ぎました。世襲議員と言っていいでしょう。

そして戦争になって、戦後になって、1946年4月の総選挙では鳩山一郎率いる自由党が第一党になり、まだ旧憲法なので国会での首班指名ではなく、天皇から総理大臣になれという大命降下がおりる直前に、鳩山さんは公職追放となってしまいました。マッカーサー司令部の方から、鳩山は駄目という指示が出たようです。

それで、吉田茂が総理大臣になった。その後、社会党の片山哲、芦田均が総理になりました。片山さんは親族に政治家はいません。

芦田均はお父さん(芦田鹿之助)が衆議院議員でしたが、1904年の選挙で一期当選しただけで、それから25年以上が過ぎて1933年に初当選なので、厳密には世襲議員ではありません。

その芦田内閣の後、吉田茂が復権し、1954年まで続いたわけです。

そして公職追放が解除されていた、鳩山一郎が総理大臣になりました。

 

 

■鳩山家は5世代が政治家

 

鳩山一郎の孫が鳩山由紀夫さんで、菅直人さんと民主党を作り、2009年に総理大臣になりました。鳩山和夫から数えると、4代目です。

しかし、由紀夫さんは4世議員ですが、世襲議員ではありません。

鳩山一郎は1956年まで総理で、その間に自民党が結党されました。そして59年に現職の議員のまま亡くなります。その長男の鳩山威一郎は大蔵官僚となっていて、後を継ぎませんでした。威一郎さんは大蔵省の事務次官までつとめ、自民党から参議院の全国区に出て参議院議員となりました。三世議員だけど、選挙区は継いでいません。

その次男の鳩山邦夫さんが、1976年にかつて祖父・一郎の選挙区だった文京区のある東京8区(中選挙区時代)から出て、4世議員になりましたが、15年くらい空白がありますから、厳密には世襲議員ではありません。そのため選挙は弱く、落選も経験しています。

その兄の由紀夫さんも、東京ではなく、北海道から立候補しています。ここは曽祖父の鳩山和夫が開拓した地域で、鳩山家とも縁のある地域らしいですが、選挙地盤があったわけではありません。引退する自民党の議員の地盤を継ぎました。

鳩山邦夫さんも民主党に参加しましたが、都知事選に立候補することになり、議員を辞任し、民主党も離党、都知事選は落選しました。

そのときに、東京2区の地盤は自分の秘書から都議会議員になっていた人に譲っていたので、いまさら戻れず、何がどうなったのか自民党に戻り、あろうことか、菅直人さんのいる東京18区から立候補しました。

この選挙では比例代表の単独1位になっていたので当選は確実でしたが、小選挙区の東京18区では、菅さんに、というか菅伸子さんに負けて落選、比例復活でした。

そのまま18区で次も頑張るのかなと思っていたら、伸子さんが怖いのか、次の選挙では福岡県から立候補して当選しました。

なぜ邦夫さんは福岡へ行ったか。福岡には、由紀夫・邦夫兄弟のお母さんの実家である、ブリヂストン創業家の石橋家があるからです。

由紀夫さんたちのお母さんの鳩山安子さんは、石橋正二郎さんの娘です。鳩山一郎から見ると、息子・威一郎の妻の実家がブリヂストンとなり、鳩山一郎の戦後の政治資金の面倒を見ていたのが、石橋家だったわけです。

吉田茂も、娘の夫が麻生財閥でしたが、鳩山一郎も息子の妻の実家が石橋財閥という、そういう関係です。

なお、音羽にある鳩山御殿ですが、これは戦前に建てられており、石橋家の財産とは関係なく、どこからのお金で建てたのかは、よくわかりません。

 

鳩山家は、由紀夫さんは引退し、その息子は政治家はなっていません。邦夫さんは亡くなり、その次男の二郎さんが福岡6区から出て当選しています。

ただ、由紀夫さんの息子は東大卒で、和夫から5世代にわたり東大を出ていますが、二郎さんは東大ではない。鳩山家は4世代目までは「東大を出て政治家」でしたが、5世代目で、東大と政治家は分離しました。

 

 

■岸信介と佐藤栄作の複雑な兄弟関係

 

鳩山政権時代に自民党が結党され、鳩山さんが辞任すると、総裁選となり、石橋湛山が勝って、総理大臣になりました。石橋さんは親族に政治家はいません。

石橋湛山は総理になってすぐに病気となり、辞任し、次に岸信介が総理大臣となりました。

 

岸信介と佐藤栄作は、いまのところ、兄弟で総理になった唯一の家ですが、苗字が違うことから分かるように、複雑な家系となっています。でも、両親とも同じ、実の兄弟です。

まず佐藤家というのがあります。源義経の家来だった佐藤忠信が祖先とされている何代も続いている家で、明治になって、佐藤信彦という人が当主となります。

長男の松介が、佐藤家を継ぎました。長女の茂世は、岸家の三男だった秀助を婿養子にとり、佐藤家の分家を作りました。その妹のさわの息子が吉田茂の娘と結婚します。

佐藤本家の松介には男子は生まれず、娘・寛子しかいませんでした。

佐藤分家には、三人の男子が生まれたので、長男が佐藤分家を継ぎ、次男・信介は父の実家である岸家の養子になりました。そして伯父にあたる岸信政の娘・良子と結婚したわけです。いとこ同士の結婚です。

佐藤分家の三男・栄作は、本家の娘である寛子と、ここもいとこ同士の結婚をして婿養子になりました。姓は同じですが、分家の佐藤さんの三男から、本家の佐藤さんの跡取りとなったわけです。

 

 

■兄・岸信介が先に出世したが、戦犯容疑で獄中に

 

信介・栄作兄弟とも東大を出て、官僚になりました。兄の信介のほうが先に出世し、東条英機内閣で商工大臣になり、「開戦詔書」にも署名したので、戦後、A級戦犯容疑者となり逮捕されたわけです。巣鴨プリズンに入っていましたが、なぜかアメリカ軍は岸信介を許して無罪放免となったわけです。

このとき、岸信介とアメリカとの間でどんな密約があったのかは、永遠の謎となっています。

 

岸さんが1948年12月に巣鴨プリズンを釈放されたとき、弟の栄作さんは吉田内閣で官房長官をやっておりました。このときは運輸省の次官を辞め、次の衆院選に出ようとしていた時期、つまりまだ国会議員ではなかったんですが、官房長官をしていたんです。

吉田茂はすごいワンマンだったので、こういう人事が可能だったんですね。鳩山一郎たちが公職追放を解除されて復権するまでに、吉田茂は佐藤栄作や池田勇人たち若い官僚を大量に衆議院に立候補させていくわけですが、それだけでなく、当選1回とか2回でも優秀な人はどんどん大臣にした。当選0回の佐藤栄作は官房長官になった。

そういうダイナミックな時代でした。

岸信介としては、自分が獄中にいる間に、弟が官房長官に出世していたわけです。

出獄すると、岸さんは、着の身着のままの格好で、首相官邸へ弟に会いに行きました。そして守衛さんに「官房長官に会いたい」と言ったら、「あなたは誰ですか」とか「何の用だ」と質問して、なかなか入れてくれない。「官房長官の兄だ」と言うと、「本当ですか」と疑って、どこかに電話している。そうしたら、栄作さんが走ってきて、兄弟の対面となったという逸話が残っております。

栄作さんは戦争中は左遷されたりして不遇で、権力の中心にいなかったので、公職追放にもなにもないですんだ。兄弟の運命は逆転していたわけですが、復権すると、岸さんは一気に権力の中枢に駆け上り、1945年にA級戦犯容疑で逮捕されてから12年後の1957年に内閣総理大臣になります。

 

 

■吉田茂はなぜ高知県から立候補したか

 

岸内閣は60年安保で終わって、次が池田内閣です。吉田茂の愛弟子と言われる人ですが、吉田は外務省、池田は大蔵省で、戦前・戦中は何の接点もなく、戦後に吉田茂が総理大臣になってからの付き合いです。

 

ここで、また吉田茂の話に戻りますが、この人は外交官で、英米派で開戦には反対でした。だから、戦争中は不遇でしたが、それが戦後は幸いして総理大臣になりました。

最初に就任したときは、旧憲法だったので、国会議員ではないのに総理大臣になったんですが、新しい憲法になったので、総理大臣を続けるには国会議員でなければならなくなった。それで、どの選挙区から出ようかという話になります。

吉田茂は、神奈川県の大磯に家がありました。後に西武が買って大磯ロングビーチとするところです。だから、普通なら、自宅のある神奈川県から立候補する。

ところが、高知県から出ます。吉田茂は高知県で自由民権運動をしていた竹内綱という人の5男として生まれ、生まれたと同時に、その友人である吉田家の養子になりました。

竹内綱はその後、事業に成功し、かつ高知県の代議士になり、長男の竹内明太郎(吉田茂の実の兄)も事業と選挙区を継いで代議士でした。ですが、最後に当選したのは1920年なので、20年以上の空白があります。吉田茂は二世ではあるけど、世襲議員とは言えません。

さっきの世襲議員の定義にも、該当しませんし、父や兄の後援会の利権を守るために高知県から出たわけでもない。

しかも、吉田茂は高知県では暮らしたことはない。それなのに、なぜ高知県から立候補したのでしょう。

住んでいる神奈川県から出ると、地元の人が陳情に来るだろう。しかし、吉田茂は貴族趣味の人なので、地元民の面倒など見る気はない。そうすると、「あの代議士は何もしてくれない」となって、次の選挙は落ちるかもしれない。高知県なら遠いから、当時は飛行機も新幹線もないので、陳情に来る人はいないだろう。そういう理由で高知県から出たそうです。

それで、選挙になっても選挙区には1日か2日しかいなかったんですが、当選し、以後も当選を重ねます。

当時の有権者は、いまより偉いですね。そこに住んでいたわけでもない人なのに、投票して当選させた。しかも、何の面倒も見なかったのに、連続当選させていた。当時の高知県の人は、吉田茂に地元利益誘導を求めていなかったわけです。

こうして吉田茂は代議士となり、そのほかに20人以上の新人を当選させて吉田学校を作ります。その代表が、池田勇人と佐藤栄作の2人です。

この2人はそれぞれ派閥を率いて、自民党総裁選を闘い、先に池田勇人が総理大臣になりました。

 

 

■池田勇人の娘たちの夫

 

池田勇人の親族では、最初の妻(直子)が廣澤金次郎という貴族院議員の娘ですが、貴族院議員には選挙区はないので、地盤を継いだわけではなく、池田勇人は国会議員としては初代です。広島が選挙区でする。

それで60年安保の後に、総理大臣となり、64年の東京オリンピックが終わると、病気で辞任しました。その後、総理大臣になるのが佐藤栄作です。

池田勇人には男の子はなく、女の子3人が生まれ、長女は金融王と呼ばれた近藤荒樹という人の長男・荒一郎と結婚しました。この近藤家が池田勇人の政治資金の面倒を見たわけです。吉田茂にとっての麻生家、鳩山一郎にとっての石橋家のようなものです。

派閥を維持するにはかなりの資金が必要なわけです。それにはお金持ちが身近にいないといけない。菅直人さんも、長男の源太郎さんがどこかの大企業の社長の娘さんと結婚していれば、長く続いたかもしれませんね。

これは冗談ですが、それはさておき、池田さんは長女は金融王に嫁がせ、二女は大蔵官僚と結婚させて婿養子にしました。それが、池田行彦さんで、衆議院議員になりました。ただ、池田勇人は総理を辞めた年、64年に国会議員も引退しており、池田行彦さんが立候補するのは1976年なので、10年以上の空白があります。

その池田行彦さんの選挙区を継いでいるのが、寺田稔さんです。岸田内閣で総務大臣でしたが、辞任に追い込まれました。この人は、池田勇人の長女と近藤荒一郎の間に生まれた娘さん(池田勇人の孫)の夫です。池田勇人の孫の夫ですね。血はつながっていませんが、池田勇人の娘の夫、孫の夫とつながっています。

 

次が長期政権になった佐藤栄作さんです。

私は1960年生まれなので、池田さんは覚えてなく、物心がついたころから小学6年生まで、「総理大臣といえば佐藤さん」で、このままずっと続くのかと思っていたら、三角大福の総裁選というのがあって、田中角栄さんになり、総理大臣って交代するのかとびっくりしました。

 

 

■文鮮明に騙された岸信介はどうしようもない

 

【ここで、菅伸子さんが発言】

 

菅伸子

岸信介さん、あの人は孫の安倍晋三さんとは違って、東大も出ているので、ましだろうと思っていたんですが、文鮮明に騙されたでしょう。何ですか、って。

統一教会が日本に入ってきたのは、彼が騙されたからです。これ、どうしようもないですね。それと、日本って戦犯になった人を首相にまた選ぶ国なんですね。ドイツでは考えられないでしょう。ナチス党にいた人が、絶対、戦後は選ばれていないでしょう。

不思議ですね。

 

中川右介

本当に不思議です。

 

 

■吉田茂と岸信介の一致点

 

さて、吉田対岸という対立構造があるとされてきました。

吉田さんは憲法を守り、経済重視で軽武装。岸さんは国家主義的で、憲法改正、重武装。たしかに、政策としては対立しているんですが、どちらも官僚出身で、党人派が嫌いという点では一致しています。

そして、池田さんが辞めた後の総裁選では、池田さんが河野一郎に禅譲するとの憶測が出ると、佐藤栄作を次の総理にすることで、吉田・岸は一致します。吉田さんにとって佐藤栄作は愛弟子だし、岸信介にとっては実の弟なので、何の問題もない。

こうして吉田と岸が手を結び、佐藤栄作を総理にします。その結果、総理になれなかったのが、河野一郎でした。

人事というのは、要するに人脈で決まる。それはタテの線である世襲と、ヨコの線である姻戚関係もからみ、複雑な人間関係で左右されているわけです。

佐藤さんは長い政権でした。1972年に総理を辞めた後も衆議院議員は続けていて、74年の参院選に次男の佐藤信二さんが参議院の全国区から立候補して当選しました。総理経験者が息子を国会議員にした最初の例となります。栄作さんが亡くなると、信二さんは衆議院のその選挙区から出て当選します。

信二さんの娘(栄作の孫)の夫・阿達雅史さんが、いま参議院議員です。選挙区は継いでいませんが、世襲に近いですね。

 

 

■叩き上げの田中角栄だが

 

ポスト佐藤は三角大福中の誰かということなりました。

その結果、田中角栄さんが政権を取りました。角栄さんはイメージ通り、叩き上げの人です。新潟で生まれて、苦労して建築会社を作って、それでお金も作って、戦後すぐの選挙に立候補して当選を重ねていきました。官僚出身ではないので、吉田学校の一員と言えるかどうかは微妙なんですが、今では田中角栄も吉田学校の一員ということになっています。

これは田中角栄が自分を吉田茂の弟子としておいたほうが都合がいいと、マスコミに頼んで、吉田学校の一員と吉田茂も認めていたという伝説を作ったという説もあります。

ともかく、田中角栄さんはたたき上げの政治家で大変人気がありました。親族に政治家はいません。完全な初代です。

小学校しか出ていないというので、当時の少学生――私もそのひとりですが――にも人気がありました。

田中角栄には、息子さんがいましたが早くに亡くなってしまいまして、娘の真紀子さんだけとなりますが、他に、お妾さんの間に何人か子どもがいました。しかし、真紀子さんが絶対に認めないので、この人たちが後を継ぐことはなかった。

真紀子さんは、鈴木直人さんという福島の衆議院議員の息子の直紀さんと結婚して、婿養子としました。

しかし、角栄さんはこの田中直紀さんに、田中家は継がせたけれど、新潟の自分の選挙区を継がせようとは考えてなかったようで、福島の実のお父さんである鈴木直人さんの選挙区から立候補させました。鈴木直人さんは現職の議員のまま亡くなり、その後は、他の自民党の議員で地盤を継いでいたのですが、その人たちも引退したので、直紀さんが福島へ戻ったわけです。

結果として、真紀子さんが新潟の選挙区を継ぎますが、それは角栄さんが倒れた後です。85年に倒れましたが、86年の衆院選でも当選、しかし一度も国会に登院できないまま、90年の総選挙には立候補せず引退しました。それから一期あって、93年の総選挙に、真紀子さんは立候補したわけです。これは田中角栄が娘に継がせようとしたというより、真紀子さんが勝手に出たと見るべきでしょう。

その後、夫婦とも民主党にいた時期もあるなど、いろいろありましたが、真紀子さんの子は政治家にはならず、田中家は国会から消えました。

総理を辞めた後も政界を動かしていた田中角栄さんですが、結局日本の政治史においては一種の徒花的な存在で終わりました。

 

 

■三木武夫の妻の実家は世襲政治家一族

 

角栄さんと総理の座を争った人たちは、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘の順で総理大臣になりました。中曽根さんの前に、鈴木善幸さんもいますね。

この人たちも、角栄さん同様に、国会議員としては、みな初代です。たたき上げといっていいです。

三木さんも妻の睦子さんの実家は森コンツェルンで、戦前の15大財閥のひとつで、お父さんは会社経営をしながら衆議院議員で、その息子たちも議員です。

しかし、三木さんは結婚する前に、衆議院議員になっていたので、妻の実家の力で議員になったわけでもないし、選挙区もまったく違います。森家は千葉で、三木さんは徳島県です。

戦後も、三木さんと森一族は自民党内で別の派閥でしたから、政治活動も一緒にしていません。

だいぶたってから、森一族の森美秀さんが三木派に入りました。多分、このあたりから森財閥の資金が三木派に入っていたのではと思います。

三木派を継いだ河本敏夫さんは、三光汽船の社長でお金持ちでした。河本さんと三木さんも、実は親戚です。三木さんの娘の紀世子さんの夫(高橋亘)の兄弟(高橋達夫)の妻(敏江)が、河本さんの娘という関係です。

それで、三木さんが亡くなった後の三木家ですが、息子は後を継ぎませんでした。ですから地盤は他の政治家が継いだ。

ところが、娘の紀世子さんの息子・高橋立さんが(三木武夫の孫)、祖母にあたる三木睦子さんの養子になって三木立となって、1996年に民主党から、東京の中野区・渋谷区の選挙区から立候補しました。徳島から出る話もありましたが、生まれも育ちも東京なので、東京から出ることになったわけです。でも落選しました。東京では「総理大臣の孫」というだけでは当選できません。

その後、娘の紀世子さんは、参議院の徳島選挙区から野党統一候補として立候補して当選し、一期つとめました。それで、三木家の政治家は終わりてす。

河本さんは総裁選に出ましたが、負けました。さらに三光汽船が倒産してしまいました。いまは大会社の社長が国会議員置をしていることは、ほとんどないんですが、昔はそういう例は頻繁にありました。西武の堤康次郎さんは衆議院議長もしていました。特に戦前は、大企業の社長さんが国会議員になるのはごく当たり前でした。

河本さんはそういう「経営者で代議士」という最後の世代です。

 

 

■初の父子総理、福田赳夫・福田康夫

 

三木さんの次が、田中角栄さんの宿命のライバル・福田赳夫さん。

福田さんの父と兄は群馬県の町長でしたが、国会議員としては、福田赳夫さんは初代となります。その後、弟の宏一さんが参議院議員になります。

そして、福田赳夫さんの後を継いだのが、息子の福田康夫さんで、いまのところ、唯一の父子が総理大臣になった家です。岸・佐藤は兄弟、近衛文麿・細川護熙と鳩山一郎・由紀夫、吉田茂・麻生太郎は、祖父と孫ですから。

福田康夫さんは総理を辞めると引退し、その息子・達夫が継ぎました。三代目になります。

福田家は、赳夫さんの娘(和子)が大蔵官僚だった越智道雄さんと結婚し、その後、越智さんは東京の選挙区から立候補して当選、いまは、その息子の越智隆雄さんが継いでいます。だから、いまの国会には福田赳夫さんの孫が二人、福田達夫と越智隆雄といるわけです。

 

 

■総理在任中に亡くなった大平正芳の後継者は?

 

次の大平正芳さんも、お父さんが村会議員、お兄さんが町長でしたが、国会議員としては初代です。大蔵官僚から吉田学校の一員になりました。

在職中に、しかも衆参ダブル選挙のさなかに亡くなりました。自分も衆院選の候補者だったのに亡くなったわけですが、候補者が亡くなった場合、その選挙区は補充立候補できるので、大平さんの女婿で大蔵官僚から首相秘書官になっていた森田一さんが立候補して当選しました。大平さんの息子もいたのですが、誰も政治家にはなりませんでした。

森田一さんの後は、大平家の人は継いでいません。遠い親戚が、国民民主党の玉木雄一郎さんです。

大平さんが急死したので、その後は同じ派閥からと、鈴木善幸さんが総理になりました。鈴木善幸さんは最初は社会党から立候補して、二期目で自民党に移った人で、政治家としては初代です。でも、先ほど言ったように、息子・俊一が世襲し、さらに娘は麻生太郎さんと結婚しています。

 

 

■中曽根康弘は息子を参議院議員に

 

次が中曽根康弘さんです。ご本人も長く総理大臣をやっていて、国会議員も長く、引退後も長生きしていましたが、息子の弘文さんは参議院議員、その子(康弘の孫)が、いま、衆議院議員です。

中曽根家は、康弘さんが長く衆議院議員を続けたので、息子の弘文さんは参議院の群馬選挙区から出たわけです。そして、その妻の兄弟が、文部科学次官で、この武蔵野政治塾の講師もしている前川喜平さんという関係です。前川さんは親戚ですが、思想信条は中曽根さんとはだいぶ違うようです。

 

 

■二世たちは、政治家を目指していない

 

このように、三角大福中は、みな、自分は国会議員としては初代でしたが、その子(女婿含む)が国会議員になっています。

そのうち、三代まで続いているのが、福田家と中曽根家。

その前の、佐藤栄作、池田勇人、岸信介も、自分は初代なのに、子や娘婿は政治家になりました。二世議員の時代になってしまうわけです。

ところが、よく見ると、この総理大臣経験者たちが、自分の子が子どもの頃から、自分の後を継がせたいと思った例は少ない。田中家のように、角栄さんの判断能力がなくなってから、娘の真紀子さんが出たり、大平さんのように急死してしまい娘婿が出たとか、そういう例もあります。

御本人が元気なうちに後継者と指名したのは福田家くらいですね。中曽根家は康弘さんがいつまでも辞めないので、息子は参議院議員のままでした。

 

 

■竹下登・金丸信・小沢一郎は親戚

 

中曽根さんの後が、竹下登さんたちの時代になります。昭和も終わります。竹下派、経世会の全盛期でした。

竹下派には、竹下さんの他、金丸信、小沢一郎という実力者がいましたが、この3人は親戚です。

竹下さんは、お父さんが村会議員でしたが、国会議員としては初代です。

そして息子はいなくて、娘の一子さんが結婚したのが、金丸さんの息子(康信)という関係です。子ども同士を結婚させたわけです。この金丸康信さんは山梨県のお父さんの地盤は継げませんでした。金丸家は一代限りでした。

竹下登さんの島根県の地盤を継いだのは、親子ほど年の離れた異母弟の亘さんです。亘さんの妻(雅子)と、小沢一郎さんの妻(和子)が、姉妹です。福田組社長の娘さんたちです。

小沢一郎さんの父の小沢佐重喜さんは吉田学校のひとりです。佐重喜さんが急死して、小沢さんは弁護士になるため法律を学んでいましたが、急遽、立候補して政治家になりました。社会人経験のない人です。

小沢一郎さんには男の子が3人か4人いましたが、離婚したので、子どもたちとも別れ、誰も継ぐ人はいません。

竹下亘さんの後も、親族は誰も継ぎませんでした。

全盛期を誇った経世会のトップ3人は、小沢さんはまだ現役ですが、家としては、これで終わりでしょう。

ついでにいうと、竹下さんの二女の子、つまり孫がミュージシャンのDAIGOです。似ているかどうかの判断は、おまかせします。そして、その妻が女優の北川景子です。北川景子さんは竹下登さんとは血のつながりはありませんが、その子は竹下さんのひ孫となります。

 

 

■昔から世襲議員が多かったわけではない

 

竹下さんで昭和の時代が終わります。

昭和戦後の現憲法下での総理大臣は吉田茂から竹下さんまでで15人。そのうち、厳密な世襲政治家は鳩山一郎のみで、あとは、吉田茂や芦田均も、お父さんやお兄さんが議員を辞めてから何十年もたってから立候補しているので、世襲政治家とは言えない。

奥さんのお父さんが国会議員だったのが、池田さん、三木さんですが、選挙区は異なります。

岸さんと佐藤さんは兄弟ですが、佐藤栄作がお兄さんの岸信介の地盤をついたのかといえば、とんでもない話で、中選挙区時代でしたので、2人は同じ山口2区から立候補して競い合っていた。お互いに相手には負けるなと、選挙戦は骨肉の争いだったらしいです。

みんな初代なのに、片山哲と石橋湛山以外の13人は、みな子どもや弟が国会議員になりました。

そして、平成・令和になると、今度は大半が、お父さんかお祖父さんが国会議員という、二世議員、三世議員が総理大臣になっていきます。

時代が下がれば下がるほど世襲議員が増えてくる。けっして、昔から国会議員は世襲だったわけではないんです。

なぜ昭和の戦後は、世襲議員が少なかったのか。これは、戦後、戦前からの国会議員の大半が公職追放にあって一旦政界から去ったことが大きいでしょう。大量の旧世代がいなくなったので、吉田学校の人たちが、どっと政界に入ることができ、入れ替わったわけです。

だから戦後の昭和の時代までは世襲議員は少なかった。でも、その初代の政治家たちの子が、選挙区を継いでてくようになっていったわけです。

 

 

■世襲議員は何の目的で政治家になったのか

 

【ここで、司会の五十嵐えりさんを含めて、短い討論となりました。】

 

中川右介

さて、五十嵐さん、生まれる前の話だったと思いますが、ここまでで、何かご質問、ご意見はありますか?

 

五十嵐えり

私もこの本(『世襲』)も読みまして、今もお話を聞きまして思うのは、国をどうするかではなく、自分の家業を長らえることが目的となっているんじゃないかと。

 

中川右介

まさにそうなんですね。世襲の候補者は、父とか祖父の「意思を継いで」とか言って政治家になりますが、それは、あまり国民には関係のない話です。でも、彼らにはそれしかないんですね、

意思を継ぐということは、ようするに、家を継ぐこと、家業を継ぐことです。

お父さんは青雲の志を持って政治家になったのに、息子や孫になってくると、お父さん・お祖父さんの意思を継ぐことだけが目的となっている。

 

 

■テーマなしに政治家になる意味はない

 

菅伸子

私は、鳩山さんの兄弟と、同じ党(民主党)だったこともあり、割合とお付き合いもありましたけど、私たちとは違いましたね。

政治家って、市議でも都議でも国会議員でも、何か「ここはおかしい」「ここを変えたい」「ここをこうしたほうが、市民にとって、もっと便利になる」というような、テーマがあって、なるものだと思うんですよ。

だけど、鳩山さんたちと話していると、何の矛盾も感じていないわけですよ。今の生活の中で、何も矛盾が見ていない。それなのに、なぜ政治家になるんだろうと、思いました。

私の夫(菅直人)の最初のテーマは土地問題でした。山口県の田舎から、菅の父が東京に転勤になって、こちらに来たら、田舎では100坪ぐらいの土地の家に住んでいたのに、東京では45坪くらいの家も、買えなかった。それくらい、東京の土地は高い。これはなぜだ、おかしいというので、農地の宅地並み課税を推進する運動をしたのが、始まりでした。

土地問題については、国会議員になってからも、何度も質問していましたが、取り入れられることはありませんでした。そうしたら、バブルで土地が上がったりして、うまくいかなかった。

うまくいくことは少ないんですが、何かそういうテーマがないと、政治家になる意味がないと思うんです。それなのに、テーマがなくて政治家になる人がいるのが、本当に不思議です。

岸田さんは、「聞く力」があるとか言っていますが、「考える頭」を持ってほしいと、そう思いますね。

考える頭のない人ばかりが、世襲の人は多いです。

何事も疑問がなければ始まらないですよ。「これはおかしい」という。でも、世襲の人には疑問も何もない。

そういう人を選んでしまう日本という国は、封建制度に戻った方が国民はしっくりするんじゃないかと思ってしまいます。殿様の子は殿様、百姓の子は百姓というほうが安定していくのかなと思うような、変な時代錯誤になっております。

 

中川右介

切実な改革志向がない人たちが政治家になってしまうと、そうは言っても政治家になった以上は何かやらなければならない、名前を残したいと思う。そうすると出てくるのが、「強い国になろう」とか「戦争のできる国にしよう」「憲法を変えよう」という、そういう方向へ行くんでしょうね。

国民はそんなことを望んでいないのに、そういうことで業績を上げれば、歴史に残ると思ってしまうのでしょう。

世襲の人は、まわりも世襲というか、経済的・社会的に恵まれているので、生まれてからずっと、生活に困っている人たちと会ったことがないので、格差とか貧困が分からないと思います。これも世襲の弊害のひとつです。

 

 

■平成初期、宇野、海部、宮澤

 

さて、平成時代に入ります。

最初の総理大臣は宇野宗佑さんでした。短命でしたね。

この人も政治家としては初代でした。そして娘婿が選挙区を継ぎましたが、そんなに当選は重ねられず、宇野家は政界から消えました。

その次が海部俊樹さんで、非世襲の政治家です。自分の子も政治家にしませんでした。

 

そして宮澤喜一さんが登場します。吉田学校出身で、東京帝国大学卒業の最後の総理大臣です。ようやく本格政権が誕生したと言われました。

宮澤さんは、岸田さんの親戚ということで、最初のほうでも話しました。政治家一族です。

父(宮澤裕)が戦前の衆議院議員で広島が選挙区。喜一さんは東京帝国大学から大蔵省に入り、池田勇人が大蔵大臣のときに秘書官となり、それがきっかけで最初は参議院の広島選挙区から出て政界に入りました。その後、衆議院に転じます。

母の実家が、長野県を地盤とする政治家一家の小川一族です。

宮澤喜一さんが衆議院議員になると、弟の弘さんが参議院議員となります。喜一さんの子は誰も政治家にはならず、孫が女優の宮澤エマさんです。ミュージカルで活躍していましたが、去年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で北条政子の妹の役を演じていました。これは別に宮澤さんの孫だからという理由での起用ではないと思います。

ですから、宮澤喜一さんの直系の子孫は政治家にはなっていませんが、弟の子、甥にあたる宮澤洋一さんが、喜一さんの衆議院の選挙区を継いで、いま、自民党の税制調査会長をしているわけです。

この一族の政治家は、みな東大を出ています。

宮澤さんは、自民党総裁としては、15代目でした。徳川幕府は15代将軍で終わりました。そんなことを思っていたら、1993年、非自民連立政権として、細川政権が誕生し、自民党政権も15代で、いったん終わりました。

皆さんの記憶にも新しいところで、この細川政権の誕生で、新しい時代が来ると思いました。

 

 

■世襲の中の世襲、細川護熙

 

細川護熙さんは、当時は日本新党の代表でしたが、最初は自民党の参議院議員で、その後、熊本県知事になった人です。

ご存知の通り、戦国武将の細川幽斎の子孫です。母方は近衛家の人で、戦前の近衛文麿首相の孫にあたります。近衛家は藤原家のひとつですから、大化の改新の藤原鎌足までさかのぼれます。世襲ということで考えれば、世襲の塊のような人です。

だから、保守派の人たちも、いまの自民党はちょっとだらしないから、野党に政権を任せようかとなったとき、細川さんならば安心だったのでしょう。これが、市民運動出身の菅直人だったら、警戒されたでしょう。

世襲政治家でも、細川さんクラスになると、いまさら権力なんか欲しくないし、お金もあるので、淡白で、あっさりと政権を投げ出してしまいました。

 

 

■吉田学校の二世、羽田孜

 

そして、また混迷の時代が始まります。

細川さんの後で連立政権で総理大臣になったのが、羽田孜さんです。

羽田さんは二世の世襲議員で、お父さんの羽田武嗣郎さんは吉田学校のひとりで、長野県から、戦後当選した政治家です。羽田孜さんは政治家になるつもりはなく、小田急バスに勤めていたら、武嗣郎さんが60歳くらいで脳出血で倒れ、闘病しながら議員も続けていたけれど、次の選挙は無理だと引退し、息子の孜さんが、地元後援会からどうしてもと頼まれる形で立候補しました。

本人は、それまでは政治家になる気はなかったということに、一応は、なっています。多分それは本音だろうとも思います。そういう意味では、政治家になる準備をしないまま政治家になった人です。

お父さんが吉田学校で、田中派にいたので孜さんも田中派に入り、竹下さんについていき、さらに小沢に担がれて、一緒に自民党を出ました。経験も積んで、人柄も良かったので、皆から慕われ、悪く言えば小沢一郎が担ぎやすい人で、総理大臣になったということです。

総理在任期間は短く、その後は民主党に入りました。

そして、長男の雄一郎さんは参議院の長野選挙区から出て議員になりました。民主党には世襲禁止ルールがありましたが、衆議院の小選挙区と参議院とは、選挙区は違うので、公認されたのでしょう。

その後、羽田孜さんが引退すると、雄一郎さんに衆議院の選挙区を継いでくれとの声が地元から出たのですが、当時の民主党のルールではできないので、出ませんでした。

それで雄一郎さんは参議院議員を続け、その間に民主党はいろいろあって、立憲民主党に入っていました。そうしたら、2020年12月にコロナで急死されました。それで、補欠選挙となったんですが、立憲民主党には世襲禁止ルールがないので、弟の次郎さんが立候補して当選しました。

これは、どうなんでしょうか。

今日、最初に深沢さんが「緩んでいる」とおっしゃっていましたが、まさに、これは立憲民主党の緩みではないかと思います。

あまり個人攻撃はしたくないんですが、羽田次郎さんは、世田谷区の区議選に立候補して落選している方です。自分が暮らしている区から区議選に出たら落ちたけど、長野県ではお父さんとお兄さんの「羽田」という名前があれば、通ってしまう。

そういう現実があります。

 

 

■またも吉田学校の二世、橋本龍太郎

 

次の村山富市さんは社会党ですから、世襲も何もないです。

その次が自民党に戻って、橋本龍太郎さん。羽田孜さんと同じ田中派・竹下派の世襲議員です。お父さんの橋本龍伍さんは大蔵官僚から政治家になった吉田学校のひとり。2回結婚していて、2人の妻とも政治家の娘です。でも、選挙区を継いだわけではありません。初代と言っていい政治家でした。

橋本家では、龍太郎さんではなく、弟の大二郎さんが政治家になる予定だったようです。NHKに入り、高知県知事になった人です。ところが、龍伍さんが亡くなったとき、大二郎さんはまだ若くて、被選挙権がなく立候補できない。そこで、呉羽紡績に勤めていた龍太郎さんが出ることになったそうです。

羽田さんと同じで、政治家になる気はなく、準備しないでなった人です。

1996年に自民・社会・さきがけの連立政権として橋本内閣ができ、菅直人さんは厚生大臣になりました。

橋本家は、その後、龍太郎さんの息子の橋本岳さんが三代目として継いでいます。

 

 

■娘が継いだ小渕恵三

 

その次が小渕恵三さん。経世会の二世議員です。お父さんの小渕光平さんは群馬県の実業家で、町会議員をしていましたが、戦後になって、衆議院議員となり、吉田学校のひとりです。

1958年に光平さんは54歳で急死し、そのとき、小渕恵三さんはまだ被選挙権がなかったので、次の選挙はほかの人が地盤を継いだのですが、高齢だったので落選しました。そこで、その次の選挙には、大学院生だった恵三さんが26歳で立候補して当選しました。

ですから、小渕恵三さんは、一日も社会人経験がない人で、その点は小沢一郎さんと同じです。

経世会出身の三人、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三、それから総理ではないけど小沢一郎さんたちは、みな政治家を目指していたわけではなく、お父さんが急に亡くなったり、病気になったので、仕方なく後を継いでいます。

そして、小渕恵三さんは、総理在任中に倒れ、そのまま亡くなりました。

後を継いだのは、娘の小渕優子さんでした。

田中角栄さんは、娘の真紀子さんに「お前が男だったなあ」とよく言っていたそうです。「男だったら後を継がせたのに」という意味です。

角栄さんの世代は女が後を継ぐなんて考えられなかったんでしょう。娘しかいなければ、婿養子に継がせる。それが常識でしたが、小渕さんの時代になると、女でもいいとなりました。

ということで、女性でも世襲できることになったわけです。

これを「女性の進出」と言っていいかどうか。

五十嵐さん、どう思いますか。

 

五十嵐えり

たまたま女性だっただけじゃないですか。

本人がやりたかったとか。

 

中川右介

もうそれもあるだろうけどでも、昔だったら、後援会が許さなかったんじゃないかと。

 

五十嵐

少しは変わってきたんでしょうかね。

 

中川右介

と思うことにしましょう。

 

 

■森喜朗は地方政治家の子

 

さて、小渕さんが倒れ、密室で選ばれたと評判の悪いスタートだったのが、森喜朗さんです。

経世会から、清和会へと自民党内で政権交代しました。

清和会は福田赳夫さんの派閥で、そのあとを安部晋太郎さんが継いだけど、病気になったこともあって、総理大臣にはなれませんでした。その派閥を森さんが継いでいました。

森さんの家は、婿養子が継いできた家で、お祖父さんは石川県で村長や町長を長くしていました。その婿養子のお父さんも、9期も町長していたので、その町は森王国みたいになっていたわけです。でも、衆議院の選挙区はその町だけではないので、喜朗さんは最初の選挙では自民党の公認をもらえず、泡沫候補だったらしいです。

ところが、岸信介が応援にきてくれ、さらに選挙中にある家が火事になって、森さんが飛び込んで、仏壇を運びだして、それが口コミで広がって、「あいつはたいしたやつだ」となって、当選できたそうです。

まさに火事場の馬鹿力で当選したわけです。その勢いで、総理大臣にまでなりました。

森さんには息子さんがいて、県会議員でしたが、交通事故で亡くなりました。いろいろスキャンダルもあったので、存命でも国会議員になれたかどうかはちょっと微妙ですが、継ぐべき息子がいなくなったため、森さんはいつまでも辞めなかったとも思います。

優秀な息子がいればさっさと引退できるんだけれども、それができない。

これはどっちがいいかという話です。次の小泉さんは、あっさり引退して、小泉進次郎さんに譲りました。

 

 

■世襲三代目の小泉純一郎

 

その小泉純一郎は、3代目の世襲です。初代、お祖父さんの小泉又次郎さんは横須賀で港湾労働者をしていた人で、戦前、「刺青大臣」と呼ばれていた人です。

それで娘がいましたが、本当の娘かどうかはちょっと微妙らしいです。で、その娘さんが一目惚れしたのが、純也さんで、非常にハンサムな人でした。政治家志望だったので、小泉家の婿養子となって、そこに生まれたのが、純一郎さんです。

総理を辞めると、次の選挙には出ず、小泉進次郎さんが継ぎました。4代目です。もしかしたら、父と子で総理大臣になるかもしれません。

小泉家には、かなり遠い親戚に石原慎太郎さんもいます。

 

小泉さんの後が、安倍晋三さんで、そのあと、福田康夫さんと、清和会政権が続きました。

政治家3代目の小泉さん、安倍家3代目で母方の祖父は岸信介の安倍晋三さん、福田赳夫の子の福田康夫さん、麻生家二代目で吉田茂の孫の麻生太郎さんと、「孫の時代」です。

その孫たちの自民党政権を倒したのが、鳩山家4代目の鳩山由紀夫さんでした。

そして、鳩山さんが一年もたたずに辞めてしまい、菅直人さんです。

 

 

■世襲ではない菅直人、野田佳彦、菅義偉

 

菅さんは世襲議員ではありません。ただ、親族には地方政治家はいまして、妻・伸子さんのお母さんが、岡山の金光町の町会議員で議長もつとめた方です。亡くなった後に、お父さんも議員になりました。でも、菅直人さんの選挙区は、ここ東京ですから、何も関係ありません。息子の源太郎さんは、岡山県から衆院選に出ましたが、その選挙区も金光町は含まれていませんでした。

岡山での源太郎さんの対立候補は逢沢一郎さんで、世襲の3代目でした。勝てませんでしたね。

政治家になるには、「地盤・看板・カバン」が必要と言われますが、やはり「地盤」が最大ですね。名前は養子になれば、その名を名乗ることもできるわけです。でも、それだけではダメで、地盤がないと選挙は難しいというのが現実です。

 

菅さんのあとは、野田佳彦さん。世襲とは縁のない人です。

安倍晋三さんが復活して、そのあとは菅義偉さん。お父さんは青森県の町会議員でしたが、菅義偉さんの選挙区は神奈川県なので、世襲ではないです。

その次が、岸田文雄さんで、3代目の世襲。

 

以上、後半は駆け足でしたが、戦後の総理大臣について世襲という観点から見てきました。

 

 

■政治の世襲のまとめ

 

【ここで、政治の世襲についてのまとめとなりました。】

◆ 政治家の世襲は戦後の現象で、「昔から」ではない。

◆ 33人の総理大臣のうち、父または祖父も総理大臣だったのは5人。父や祖父・兄が国会議員なのは17人。

子や弟、甥などが国会議員なのは22人。親族に国会議員がいないのは8人。

◆ 岸信介・佐藤栄作・安倍晋三の一族三名だけで、戦後78年のうち20年も政権の座にあった。吉田茂・麻生太郎・鈴木善幸・宮澤喜一・岸田文雄も加えると、36年。

◆ 「世襲」の利点である「英才教育」「帝王学」はなされている気配がない。

◆ 二代目は「親の突然の死」など成り行きで政治家になっていて、幼少期から政治家を目指していない。

◆ 世襲議員がいることで、外部からの優秀な人材の登用が阻まれている。

◆ 娘がいてもその婿養子が継ぐケースが大半で、女性に継がせる例は少ない。

 

 

■世襲の利点である「英才教育」がなされていない

 

世襲に利点があるとしたら、子どものころから、「お前は政治家になるんだ」「将来は総理大臣を目指せ」と育てられることです。そう言うだけではだめで、それにふさわしい教育をする。英会話の学校へ通わせて英語がペラペラになるとか、憲法や国会法や内閣法をぜんぶ暗記するとか、いろいろな法律や国際情勢の知識も身につけ、外国に留学して外国にも人脈を作るとか、そういう英才教育がなされていれば、まだましかなとも思うのですが、どうも、そんな人は見かけません。

 

33人の総理大臣の最終学歴を見ますと、いちばん多いのは東京帝国大学卒業で、吉田茂、片山哲、芦田均、鳩山一郎、岸信介、佐藤栄作、福田赳夫、中曽根康弘、宮澤喜一と9人です。東京大学の鳩山由紀夫さんを入れて10名。ただ、そのうちの8人が昭和の総理大臣です。

もちろん、東大を出てなければいけないとか、東大を出たから偉いとは言えません。東大かどうかだけで人間を判断してはいけないのだけれど、客観的事実として、総理大臣の偏差値は、だんだん下がっています。

英才教育がなされているとは思えないというのは、そういうことです。

 

 

■長く続く歌舞伎役者の家

 

では、世襲ならではの英才教育を、どこならやっているか。

その例として、歌舞伎役者の家を挙げたいと思います。

歌舞伎は江戸時代からですが、長く続いている家、10代以上続いている家がいくつかあります。

一番代数が多いのが中村勘三郎家で、18代目が2012年に惜しくも50代の若さで亡くなりました。

この家は座元、劇場の経営者の家で、役者の家ではないんです。明治維新の後まで、どうにかつづいていたんですが16代目で絶えてしまいました。そこで、その名前をもらったのが、17代目で、その子が、18代目。いまの中村勘九郎が将来は19代目となり、その息子の勘太郎くんが、いまはまだ小学生ですが、いずれ20代目になるでしょう。

血統としては17代目から新しくなっています。

 

市村羽左衛門家は、17代目が2001年に亡くなり、いまは誰も名乗っていません。家を継いだ役者はいるのですが、この大きな名前は襲名していません。

この家も、もとは座元でした。尾上菊五郎家と親戚になります。

 

片岡仁左衛門は当代が15代目です。関西の家で、7代目以前はよくわからない。系図がはっきりしません。8代目から新しい血統となりましたが、いろいろ複雑です。

 

次が市川團十郎で、去年の11月に13代目襲名がありました。この家は初代から9代目までは血が繋がっていました。しかし、その後は血統は断絶しましたが、家は続き、11代目から新しい血統となって今の13代目まで3代、その子の新之助まで入れると男系男子で4代続いています。

 

この市川團十郎家と親戚関係にあるのが松本幸四郎家で、当代が10代目です。ここも7代目から新しい血統となり、4代続き、さらにいまの市川染五郎が5世代目となります。

 

坂東三津五郎も10代まで続き、2015年に10代目が若くして亡くなりました。多分、坂東巳之助が、11代目を継ぐと思います。

この家は、守田勘弥家、玉三郎の家と親戚です。

 

10代以上続いている家は、これだけです。

そのなかで、中村勘三郎、市村羽左衛門、守田勘弥の三家は元は座元でした。役者として、いちばん長く続いているのが市川團十郎家です。

 

 

■市川團十郎家の初代から8代目

 

初代團十郎は今から360年前ぐらいに前、元禄時代に活躍した役者です。

そして、最初に息子を2代目にした人でもあります。

初代がまだ元気なうちに息子も舞台に立たせて、「これがせがれです。よろしく」というようにお披露目して、後を継がせると宣言しました。そうしたら、初代は45歳くらいの年に、舞台の上で殺されるという、衝撃的な死を迎えます。それで、まだ17歳くらいだった2代目が後を継いで襲名しました。

江戸時代は、役者が自分の実の子に継がせることは、ほとんどないんです。そもそも子どものいない役者が多かった。昔のおしろいには鉛が含まれていたので鉛毒になり、子どもができなかった人が多かったんです。とくに、女形はそうです。

そのせいかは分かりませんが、2代目團十郎には子がなく、弟子を養子にして3代目としました。このことから、実子にこだわっていないことも分かります。ところが、3代目は20歳くらいの年に病気で死んでしまいます。

2代目は、妹の子(姪)を養女にしていました。その子は、2代目松本幸四郎と結婚しました。そして、娘婿である2代目幸四郎が、4代目團十郎になるんです。

ここからまた新たな血統となり、5代目團十郎が生まれます。ただ、4代目の妻、2代目の養女は、初代の孫でもあるので、女系にはなりますが、初代の血がつながっていることになります。

それで、5代目團十郎は、妻との間には子がなかったらしく、お妾さんが産んだ子を6代目としました。だけど、6代目は20歳くらいで亡くなってしまいます。

このとき、5代目はまだ元気だったので、自分の娘の子(孫)を7代目にします。まだ10歳くらいでしたが、團十郎を襲名します。この7代目が、市川團十郎家の中興の祖みたいなに人で、「歌舞伎十八番」を制定します。

養子、女系の子、庶子、孫と、いろんな方法で、市川團十郎家は続いていきます。

7代目にはお妾さんがたくさんいて、何人ものお妾さんとひとつの家で暮らしていたという、羨ましいのか大変なのか分からない人です。子供も、男の子だけで7人いました。

 

 

■9代目で血統が途切れる

 

長男が8代目になり、とても人気があったのですが、30歳ぐらいの年に、切腹自殺をしてしまいます。

そして、明治維新後、7代目の5男で、生まれてすぐ、河原崎家に養子に出された人が、9代目團十郎となります。

7代目としては長男がしっかりしているし、他にも3人いるので、どうにかなるだろうと5男を養子に出したのですが、次男、三男、四男は、病気になったり、行方不明になったりして、誰も継げず、5男が市川宗家に戻って、継いだわけです。

9代目團十郎は、明治になって、世の中が激変したのにあわせて、歌舞伎の近代化に成功し、「劇聖」と讃えられる名優となりました。

明治36年に亡くなります。残念ながら男の子がいなくて女の子2人でした。それぞれに婿養子をもらいました。長女の夫は銀行員だった人で、芝居には何の縁もない人です。

ところが、9代目が亡くなると、役者になると言い出して、実際、なってしまいます。でも、それまで何の修行もしていないので、役者としては成功しませんでした。

本人は10代目團十郎になりたかったのですが、そういう声も出ず、亡くなってから、追贈されました。

その10代目夫婦には子がなかったので、7代目松本幸四郎の長男が養子となり、11代目團十郎となりました。戦後、まだ海老蔵を名乗っていたときに、「海老様」と呼ばれ、非常に人気のあった役者です。いまの、13代目の祖父です。

7代目幸四郎は9代目團十郎の弟子で、もともとは三重県の土建屋の子として生まれました。ななにかの事情で、お母さんと東京に出て、日本舞踊の藤間流の家元の養子になり、9代目團十郎の弟子になった人で、6代目幸四郎とは何の関係もありません。その遺族が、継ぐ人がいないので、継いでくれと頼み、襲名しました。

7代目幸四郎の長男が、11代目團十郎、次男が8代目幸四郎(初代松本白鸚)、3男が2代目尾上松緑となり、戦後の歌舞伎界を支えました。この他に、数え切れないほど子どもがいたそうで、亡くなった後、松緑さんのところには、「あなたの弟です」と言ってくる人がたくさんいて、大変だったそうです。

 

 

■13代目市川團十郎とその子、8代目市川新之助

 

11代目團十郎は1962年に襲名したのですが、65年に亡くなってしまいました。

その長男が1985年に12代目を襲名しましたが、2012年に亡くなってしまいました。

そして、その長男、この前まで海老蔵だった人が、昨年13代目を襲名し、その子が市川新之助を襲名しました。

 

【ここで、13代目市川新之助と、8代目市川新之助の襲名発表の記者会見の映像が流れました。】

 

新之助君は9歳です。しっかりしてますね。

歌舞伎役者は、いまはほとんどが世襲です。生まれた瞬間というか、生まれる前から、男の子だったら役者になると決められています。そして、決められているからには、ちゃんとした養育システムが確立されています。

 

 

■歌舞伎役者の教育システム

 

だいたい3歳ぐらいで「初お目見え」といって、親に連れられて舞台に出ます。挨拶をするだけですが、それで拍手喝采となります。

昔から数え年の6歳が習い事の始まりと言われているので、5歳ぐらいから、舞踊などを習い始め、舞台にも出て、子役の役を演じ始めます。

その後、中学高校時代は変声期で声が安定しないので、セリフのない舞踊に出るくらいです。もともと歌舞伎には少年の役が少ないんです。

10代の終わり、高校を出てから、本格的に、お父さんの舞台に一緒に出るようになります。なかには高校を中退してしまう人もいます。

こうして、役者への道を歩んでいくわけです。

これは、可哀想と言えば、可哀想です。本人の意思に関係なく、そういう運命になっている。一応、自分の意思で役者になったということになっていますが、他の選択肢は与えられていないので、よほど向いていないか、嫌いでなければ、その道に進みます。

とくに、市川宗家のようなに家に生まれると、最初のお宮参りからマスコミが駆けつけ、初節句だとか七五三だとか、そのたびに報じられ、初御目見得、初舞台と、子どもの頃から、イベントが続くので、役者になるしかないです。

そうやって育てられるので、しっかり育ちます。さきほどの9歳の市川新之助くんの記者会見は立派でしたね。では、この後、岸信千代さんの記者会見もお見せしましょう。と思ったのですが、気の毒だから止めておきます。

 

 

■世襲が多いと、新規参入できない

 

役者の子がちゃんと役者になっている点では、歌舞伎の世襲はうまくいってるといえます。

戦前までは、実の子が継ぐことは少なかったのに、なぜか戦後はほとんどの役者に男の子が生まれてきました。しかも、お妾さんというのが許されなくなっているのに、生まれてきたわけです。

それで、現在は実の子が世襲するのが大半となりました。

さらに、政界にも似ているのですが、役者の子同士、つまり役者の娘と、役者の御曹司とが結婚するケースもいくつかあって、幹部クラスの役者の8割が親戚同士になっています。

しかも、みな子ども時代から歌舞伎座に出ていますので、学校は違っても、みな幼なじみでもあるわけです。だから、仲がいい。

それはいいことではあるのですが、問題は新規参入ができないことです。

いま活躍してる主役クラスの役者で、歌舞伎役者を親に持たない人は、坂東玉三郎と片岡愛之助の2人だけです。他は全部が、役者の子です。

さらに、玉三郎と愛之助も、役者の子ではなかったけど、役者の養子になったので、主役を演じられるのです。

一応、国立劇場が歌舞伎研修生を募集して、一般の家庭からも役者になれるシステムはありますが、そこを出て、誰かの弟子になっても、養子にならない限りは、主役は永遠に演じられないのが現状です。

 

 

■歌舞伎の世襲のまとめ

 

◆ 「実子による世襲」は戦後になってからの風習。徳川時代から戦前までは弟子を養子にして継がせていた。

◆ 役者の家で最も長く続いているのは市川團十郎家で、男系男子にこだわらず、女系男子、庶子、女婿、養子など、あらゆる世襲ノウハウを駆使して、十三代続けてきた。

◆役者の安定的な代替わりには、強い後見人、後ろ楯の存在が不可欠。

◆世襲が定着したため、幼少期から舞台に立たせ、役者としての英才教育が可能となった。

◆ タテの世襲だけでなく、役者の家同士の婚姻により、現在の歌舞伎界は幹部役者とその子たちの八割が親戚という状況となり、門閥主義が定着した。

◆ 世襲の役者が大半となり、「主役の家」「脇役の家」の固定化、一般家庭出身者の登用の困難さなどの弊害が生じている。

 

以上です。

 

 

■民主主義の世の中になっても、親の言いなりの結婚をする女性たち

 

そろそろ時間なので、最後に伸子さんにちょっとお聞きしたいと思います。

政治にしても歌舞伎にしても、あの複雑な家系図は、決して男だけが作っているわけではなく、子を産む女性がいなければ成り立たないわけです。

要するに政治家の家に生まれた女性が、親の言いなりに、親が決めた相手と結婚し続けるから、ああいう家系図になるわけです。戦前は、女性は親の決めた人と結婚するしかなかったので、しょうがないです。でも戦後80年近くになるのに、いまもまだ2世代3世代にわたって、そういう結婚が続いているのが、僕にはわからないのですが、女性として、どうなんでしょう。

 

菅伸子

私は77歳ですが、ちょうどお見合い結婚と恋愛結婚が半々でしたね。1970年頃まではそうでしたよ。誰かが世話をしてくれて、結婚してました。

でも、その次の世代になると、ずいぶん変わったと思う。

 

中川右介

一般的にはそうかもしれませんが、政財界では、いまもまだ、昔の戦国武将が娘と息子を結婚させるような、政略結婚が残っている感じがします。

吉田茂から岸田さんまでつながる家系図を見ていると、皇族もいますので、まさに、平安時代の藤原摂関家の家系図を見ているような気分になりました。

戦後の民主主義が、全面否定されているのではないかとすら思ってしまう、今日この頃です。

~質疑応答編に続く~

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