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NEW!!【活動報告】第18回「戦争の痕(きずあと)」講演篇

7月30日、大石芳野さんを迎えての「戦争の痕」が開催されました。暑い日の午後でしたが、会場は満席となり、参加者のみなさんは、大石さんの静かで落ち着いた口調でのお話に聞き入りました。司会は、武蔵野政治塾運営委員の松下玲子(武蔵野市長)さん。
当日参加されていた、作家の中川右介さんによるレポートです。

語られた内容は、重く、悲しく、つらいものばかりでした。しかし、見なければいけない、聞かなければいけないという、会場にいた方々の真摯な気持ちと、語らなければならないという大石さんの使命感とがシンクロした、貴重な2時間でした。

まず、松下さんからの開会の挨拶と、大石さんの紹介がありました。

本日の講師は、写真家の大石芳野さんです。
大石さんは約半世紀にわたり、世界の戦争、紛争のドキュメンタリー写真を撮っておられます。取材先は、ナチスによる虐殺に地から、広島、長崎の被爆、沖縄、コリアン従軍慰安婦、カンボジアの虐殺、コソボ紛争など多岐にわたり、戦争の悲劇、被害者の実態を撮影し続けていらっしゃいます。
その写真は高い評価を受け、土門拳賞など、数々の賞を受賞されております。
戦争の痕(きずあと)にレンズを受け、真実を映し出す、その作品群は、「戦争は終わっても。終わらない」という、強いメッセージを私たちに届けてくださいます。
今回の武蔵の政治塾では、厳選したお写真1枚ずつを、解説を入れながらお見せし、戦争とは何か、平和とは何かについて、ご講演をいただきたいと思います。

続いて、大石芳野さんが、自己紹介から始められました。

■「日本軍に村人や親戚が殺された」と聞いて驚く

ご紹介いただきました通り、私は長いこと、「戦争の痕」を中心に仕事をしています。それはなぜかを、最初にお話しします。
若い頃に東南アジアに行きました。日本が、どんどん高度成長期に入っていた頃です。
東南アジアの人たちは、親しくなってくると、私に「日本軍に自分たちの村人や親戚が虐殺された」とを話すようになりました。私はその話に大変驚きました。日本の兵隊は赤紙一枚でとても辛い目にあいましたし、私の友だちも父親を失いました。そういうことは、知っていましたけれども、日本軍に村人が、子どもまでも殺されたという話は――多少は知っていましたが――具体的には知りませんでした。
大変驚いて、それ以降、「戦争」がとても気になるようになりました。
日本はもう戦争が終わって高度成長に向かっている。その同じとき、片や、戦争の傷がまだまだ心の中に残っていて、なかなかそこから立ち上がれない人たちが、大勢いることを思い知らされたのです。
私が社会人になったのは50年近くも前でしたので、当時は「写真」の仕事がしたくても、新聞社も雑誌社も男性のみで、女性が就職できる状況ではなく、仕方なくフリーランスになりました。
以降もずっとフリーランスで写真の仕事をしてきました。そのためには、いろいろな仕事、雑誌のグラビアとか広告系の仕事もやりこなしながら、取材したいと思っている地域に行っていました。それが40年以上続いています。
ここにいらっしゃる方は、みなさん、私とあまり年齢も変わらないようですから、もう細かい説明はいらないと思います。

■戦争反対です

これから見ていただく写真は、時代は昔です。たとえばベトナム戦争、カンボジアのポル・ポトの大虐殺とかいろいろ出てきます。それは、昔、もう現代史になったのかもしれない。でも、実は、そうではない。今も引き続いています。つらい思いをした子どもたちは大人になっているかもしれませんが、まだつらい思いをしている子、新たな犠牲者も生まれつつある。そういう21世紀を迎えているということを、非常に重く感じております。

私は、「戦争反対」です。
なぜ「戦争反対」かと言えば、戦争というのは始まるときは国家の利権で、とても簡単に始まります。けれども、戦争の体験はひとりひとりの中に、いつまでもいつまでも重たい気持ちが残る。そして死ぬまでその傷は消え去ることがない。だから、戦争はいけないんです。
私は、それが人間の起こす戦争のおぞましさだと思ってきました。これからも、そう思い続けます。

戦場での兵士同士が戦っている写真も大事ですけれど、それは体力不足で撮れていません。
そういうわけで、私の写真には、子ども、お年寄り、女性、ひとりひとりの人びとです。
どうぞ、その人たちが何を伝えようとしているかに、心を重ねて考えていただけたら嬉しいです。

■大石芳野『戦争の痕』
【以下、大石芳野さんの写真がスライドに映され、それを見せながらの解説となります。ひとつのテーマが終わるごとに、松下玲子さんとの短い対話もあります。
ここにはすべての写真を掲載できないので、写真は動画をご覧いただきたいと思います。】

■「戦禍の痕」
【最初に全体のタイトル「戦禍の痕」が出ます。「痕」と書いて、「きずあと」と読みます。「傷痕」だと外傷の痕に限られてしまいますが、心の傷もあれば、街や自然も戦争で傷つきます。大石さんは、戦争がもたらす、全ての「痕」を写真におさめています。】

これからお見せするのは、たくさんの写真の中のごく一部です。そこから想像力を膨らませていただいて、皆様のお力によって、いろんなことを汲み取ってください。

■「ベトナム」
【写真1 飛行機から撮られた大地。あちこちに池のようなもの】
初めてハノイ郊外の飛行場に着陸する寸前で、最初、こんなに池が多いのかと思ったのですが、実は違いました。アメリカ軍が空爆で落とした爆弾のあとに、水が溜まって池のようになりました。

【写真2 横を向いている男性。顔や腕などに、痛々しいケロイド状の傷痕】
アメリカ軍が朝礼で並んでいた小学生たちにナパーム弾を落としました。ほとんど全員が亡くなりました。けれども、彼と数人が生き残りました。でも、このような状態です。

【写真3 剥き出しの大地というか、地面。草はほとんどなく、地平線の向こうまで建物も何もない。一本だけ細い木が立っている】

アメリカ軍が散布した枯葉剤の跡地です。ここは元は森でした。ジャングルですから、像とか豹とか大蛇とか、いろんな野生動物がいましたが、いずれも死に絶えてしまいました。戦争が終わって10年後に撮った写真です。でも、草もほとんど生えていません。村人が言うには、植林してもなかなか根付かない。それだけ枯葉剤のダイオキシンが残っているということです。
1本だけ残っている木があります。撮影するとき、とても象徴的な感じがしました。全部、なくなってしまったのに、この木は、後世の人に何かを伝えたいと思って、ここで生き残ったように感じました。1988年の撮影です。

【写真4 人形を抱いた小さな女の子が椅子に座り、こちらをじっと見つめている】
生まれながらにして障がいを持っている、少女です。知能もやられ、身長は3歳くらいですが、13歳です。

【写真5 結合性双生児の子ども】
ベトちゃんドクちゃんです。
【この結合性双生児の母親は、終戦の1年後に、米軍が大量に枯葉剤を散布した地域に移り、農業を営んでいましたので、枯葉剤が原因だとされています。】

【写真6 2人が分離手術を受けた後の写真。手前にベトさんが寝ていて、ドクさんはその後ろに松葉づえをついて立って、こちらを見つめている。】
2人をずっと撮っていましたのでこの2枚の写真の他にも、たくさんあります。
なぜ、2人は分離手術をすることになったかといいますと、ベトさんが重い脳障害になったためです。日本のドクターの協力もあって2人は分離手術によって、ひとりひとりになりました。

【写真7 ドクさんとその妻、それぞれが赤ちゃんを抱いている】
ドクさんは結婚しました。2人の子どもに恵まれましたが、結婚したときに、実はベトさんは亡くなられてしまったんです。ドクさんの結婚を見届けるようだったのが、とても印象的でした。

【写真8 11人の集合写真。正面をじっと見ている人、視線をそらしている人、その表情もさまざま】
枯葉剤ダイオキシンの被害を受けた人たちです。3世代です。前列両端が、おじいさん・おばあさんで、森の中で、アメリカ軍と戦っていた時に枯葉剤ダイオキシンを散布されて、そのときは「霧のようなものが降ってきて、気持ちが悪くなってとてもつらかった」と言っていました。
その後に生まれた子どもたちが後ろにずらっといます。おばあさんの隣が娘さんで、その娘さんから生まれた孫が、その隣にいる2人の男の子です。
みな症状は同じです。ダイオキシンは遺伝子を壊しますから、壊された遺伝子によって同じような症状が出るケースが多いようです。

【対話】

松下 ベトナムのお話で、枯葉剤で被害にあわれた方たちを撮るにあたってのご苦労があったと思うんですが、そのあたりをお話しいただければ。
大石 そうですね。よくお話を聞いて、コミュニケーションをとって、仲良くなって、それから枯葉剤ダイオキシンについては私も少しは知識がありますから、そういう話をします。なかには、そういうことを何も知らない人もいます。そういう人たちとコミュニケーションをとって、何らかの精神的なつながりができることもあります。
とても貧しくて、お米もない人には、あとでプレゼントすることもありました。それが良いことかどうかは、分かりません。取材者は取材に徹するのが本当は大事なことかもしれません。
でも私は、ちょっと仲良くなると、どうしても援助したくなってしまいます。そういうふうに、繋がっていったという感じです。

【解説】大石芳野さんが撮るポートレートは、撮られる人との間に信頼感が生まれ、「撮ってよい」という「時」が来るのを待ち、その「時」を捉えています。それは一瞬の表情ではあるけれど、そこにいたるまでの長い時間が凝縮されています。

■ラオス
ベトナム戦争では、隣国のラオスも戦場となりました。アメリカは「ベトナム戦争はあったけれど、ラオスとの戦争はなかった」と言っているそうですが、ラオスの人たちはアメリカと戦った戦争、「抗米戦争」と呼んでいます。

【写真1 農村の一面の田んぼ。何かが爆発している】
ラオスもお米の民族で、もち米の田んぼです。水田ではありません。爆発しているのは、アメリカ軍のクラスター爆弾です。今、アメリカがウクライナにクラスター爆弾を援助したことに、大勢の人が、非常に不愉快な思いをしていると思います。
これを撮影したのは、18年前の2005年です。戦争は1975年に終わりましたが、アメリカ軍がクラスター爆弾を使用したのは1973年までです。それなのに、不発弾が今も残っているのです。
なぜこうなるのか。クラスター爆弾は地雷化します。不発弾が地雷化していつまでも残るんです。30年、40年たっても残ります。
クラスター爆弾は回転数に達すると爆発するように設計されています。たとえば88回、回転したら爆発するようになっていたとして、落ちたときが87回だとすると、ちょっと触っただけでも爆発します。
ラオスにはUXOという不発弾除去機関があり、自衛隊のOBも援助しています。処理隊は、この爆弾を見つけたところで爆発しなければ、ちょっと触っただけで爆発する危険性があります。10回ぐらい回転数に余裕があれば、キャッチボールぐらいはできるかも、ですが。

【写真2 片方の目を閉じた男の子が睨んでいる。うしろには、その母親らしき女性】
クラスター爆弾で怪我をした、6歳の男の子です。後ろはお母さん。彼はおじいさんと畑に行き、おじいさんが土に鍬を入れた途端に爆発して、おじいさんは即死、彼は大けがをしました。

【写真3 動画では映っていませんが、怪我をした女の子の写真】
彼女は13歳で、クラスター爆弾で怪我をして病院に運ばれてきました。こういう怪我人が非常に多いんです。私が取材を始めたのは戦争が終わって30年後ですから、お母さんもお父さんも(クラスター爆弾について)あまり知らない。だから自分も知らない戦争で子どもがやられてしまっている、といった人たちが少なくありません。

【写真4 木の葉に埋まってるように、何か丸いもの】

これがクラスター爆弾です。道の端に落ちていました。私が蹴飛ばしそうになった爆弾です。
道を歩いていましたら、私の足がふと止まりました。自分で止めようと思ったのでもなく、ふと止まったんです。そして何気なく下を見ました。この写真は、私が松葉を除いたあとで撮ったものですが、その前は松葉が覆いかぶさっていて、30年以上経っていますから土の色とクラスター爆弾の色も同化していて、判別しにくかったのですが、でも、「何か変だ」と神様に言われたかのように、思わず足が止まりました。もし踏んでいたら、爆発した可能性もありました。
見たら靴の先から2センチぐらいのところにありました。またいでいたらよかったけれど、踏んでいたらとんでもないことになっていただろう、私はなんて運がいいんだろう、これは「もっと取材を続けなさい」と天に言われているんだなと思った次第です。
大きさとしては、テニスボールより少し小さいくらいです。蝋燭台の形とか、クラスター爆弾には、いろいろな形があります。

【解説】写真家にとって――他の職業もそうかもしれませんが――重要な才能のひとつが、「運がいい」ことです。写真家は自分で無から創造するわけではありません。そこに「在る」ものしか撮れません。つまり、偶然に左右される度合いの多い仕事です。たまたま行ったら会えた、たまたま雨が降ってきた、そういう多くの「たまたま」が、写真を生み出します。
クラスター爆弾をもう少しで踏むところだったのに、足が「ふと止まった」のは、大石さんの強運を物語るエピソードです。

■カンボジア
カンボジアもアメリカ軍の爆撃を受けました。カンボジア戦争がありました。
ベトナム戦争とカンボジア戦争は、ペンタゴンが記録をしている、アメリカが認めている戦争で、「インドシナ戦争」と言っています。
しかし、カンボジアは、カンボジア戦争が終わった直後からが問題でした。

【写真1 アンコール・ワット(遺跡)の遠景。手前の池では、子どもたちが遊んでいる】
アンコール・ワットです。東南アジアで一番大きな寺院の遺跡です。12世紀に造られ、日本では平安時代でしょうか。手前の池は聖地で、近くの村の子どもたちが、水浴びしていました。

【写真2 少女。地獄から戻ったような表情】
彼女は、たった今地獄から戻ってきたという表情の顔をしています。ポル・ポト時代を生き延びた少女です。

【写真3 頭蓋骨が並び、それを子どもたちが並んで見ている】

大量虐殺の現場です。
ポル・ポト時代には200万とも300万と言われる人たちが殺されました。ポル・ポト時代は民主カンプチア(民主カンボジア)と言いますが、これについて詳しく説明すると時間がなくなります。とにかく大量虐殺がありました。
ポル・ポト政権によって自国民が二つに、新人民と旧人民とに分かれました。旧人民がポル・ポト派、新人民は敵ということで――中国の文革と一緒ですけれど――虐殺が繰り返された。そういう歳月が4年間あったわけです。

【写真4 女性。何かを訴えるような眼差し】
この女性は夫と子どもをポル・ポト政権の幹部に殺されました。殺されたときの様子、いまの気持ちなどを話してくれました。

【写真5 豪雨の中を子どもが走っている】
日本で言うゲリラ豪雨で、向こうではスコールと言います。雨季と乾季があって、雨季のスコールです。ザーと降って、太陽が出るとカラッと晴れるので、濡れても別に何ともない、すぐに太陽が乾かしてくれるという感じです。
男の子がスコールの中をこのように、なんて言うか、たくましくと言っていいかどうかわからないけれど、歩いているのに、私は感動しました。
というのは、私はカンボジアはもう壊れてしまうんじゃないかと思っていました。
あまりにも大勢の人が殺されて、人びとは疲弊しきっているという状態でしたので、壊れそうだ、心配だなって、そんなふうに思っていました。
でも、この男の子の姿を見て、「あ、大丈夫だ、カンボジアはやっていけるぞ」って、思いました。

【対話】
松下 先ほどの写真では、頭蓋骨が無造作に置いてありました。遺骨収集などはされずにそのまま、野ざらしにされているでしょうか。
大石 あれは1980年から83年でした。4年、5年あたりまでは、あの状態でした。最近は収集されて、上座部仏教の仏教徒の国ですから祠(ほこら)を作って、頭蓋骨をお祀りし、そこに村人が御線香をあげたりお花を捧げ、お祈りしています。だからいまのカンボジアでは、野ざらしにしてるいることはありません。
最近、総選挙があって、皆さんも報道とかでご覧になっていると思いますが、カンボジアはすっかり落着いて、政治とか社会の状況は問題もありますが、一応、他の東南アジアの国と同じように発展しました。でも、1980年代はこんな感じでした。
1980年から7年くらいは、人びとはこういう鬱陶しい表情で、旧人民と新人民とに分かれて、何かお互いにつらいっていう感じでした。

■アフガニスタン
【写真1 子どもが描いた絵を撮った写真。人びとが空襲から逃げているところが描かれている】
子どもが書いた絵です。アメリカ軍に爆撃されてみな恐れている様子です。

【写真2 廃墟となったところに、子どもが2人】

これが爆撃されたところです。この広くなっているところは住宅でした。アメリカ軍は「誤爆」と言っていますけど、民家が爆撃されました。
そこに近所の子どもが、なんとなく来ていた、という感じのところを撮りました。

【写真3 花を持った少年2人がこちらをじっと見ている。背景にはお城の遺跡のようなもの】
姉弟です。野生のチューリップを持っています。
ソ連は1979年から89年までの10年間、アフガニスタンに「隣人を助ける」という理由で攻撃してきました。10年間、国中が戦場になりました。
後ろに見える遺跡のようなものは、その爆撃で壊された住宅です。お城のようなのは、レンガ造りの塀です。この塀の中に、何軒もの家があって、親族が一緒に暮らしています。
爆撃されたので、塀だけが残りました。

【写真4 廃墟となった街を、子どもを抱いた女性が歩いている】
これは首都カブールです。私はあちこちを取材していますが、首都がこんなにも壊されていることに驚きました。
今、アフガニスタンはひどいことになっていますね。タリバン政権になって、アメリカ軍のような大きな爆撃はなくなりました。けれども、女性が虐げられている、苦しんでいます。

■南スーダンとスーダン
【写真アフリカの南スーダン共和国は、2011年にアフリカで最大の面積を持つスーダン共和国の南部10州が分離独立して、できた国です。その前、1983年から2005年まで22年にわたり、第二次スーダン内戦がありました。】

【写真1 自動車の内部。ガラスには銃弾の跡】
これは内戦で壊れた車です。南スーダンです。

【写真2 子どもが靴磨きをしています。】

これも南スーダンで、両親を失って浮浪児になった子どもです。靴磨きをしていました。

【写真3 けわしい表情の少女】
スーダンの西部ダルフールの難民です。ダルフールでは何百万人もが難民になった、100万人以上が殺された、と言われています。私はダルフールに取材に行きたいと、何度も何度も申し込みましたが、決して許されませんでした。今は行かれるかもしれません。ハルツームの政権も交代し、ダルフールは少し落ち着いてきていると伝えられています。

【対話】

松下 靴磨きの少年の写真は大石さんが昨年刊行された『わたしの心のレンズ』に載っていますね。そこに、こう書かれています。
〈彼は社会ばかりか世界を拒絶するように私が構えたカメラのレンズに矢で射るような眼差しを向けた。全ての大人を許さない! と怒りの炎を燃やし、心で叫びながらも、心深く沈潜した哀しみからは逃れられない苦悩が滲んでいた。〉
実際に写真を撮られたとき、こういった心境だったんでしょうか。
大石 ええ。この後、この子にいろいろな話を聞きたくて――もちろん、通訳付きですが――話しかけたんですが、どこからともなく大人がやってきて、彼を追い出した、私から引き離したのです。その大人が誰かというと、孤児たちを束ねている人です。売り上げを吸い上げているのですね。
松下 両親を戦争で亡くして、生活の面倒を見てもらう代わりに働かされているんですね。
大石 そう。もちろん、働かなければ彼は生きていけないのです。その働き口、靴磨きにありつけたものの、その大人によって束ねられ管理されている。
松下 本には、当時10歳とあります。10歳というと小学生です。この本のなかで、私はこの写真と、この子に会ったときの大石さんの心の声が、すごく印象に残りました。
大石 ありがとうございます。

■78年前に終わった戦争
ここから78年前に終わった戦争についてお話します。78年前ですから、写っている方は皆さん、おじいさんおばあさんです。でも今までご覧いただいた子どもたちと同じように、当時は子どもだった。あるいは、10代の青春を謳歌していた人たちだったと言っていいかと思います。

■ナチス
【写真1 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。雪に線路が埋まっている】

有名な「死の門」です。ヨーロッパ中から貨車で運ばれてきた囚人、いえ、普通の人ですね、主にユダヤ人です。そのほか、ヒトラーの政策に反対する人たち、反ナチスの人たちが貨車に乗せられ、ここに送られてきました。
ここが終点で、すぐにガス室に送る人と、労働で使う人に分けられました。ここで、最初の運命が決まったわけですね。
この写真は冬で、雪が積もっていますが、私が最初に行ったのは夏でした。そのときに、囚人にさせられていた人に、冬の話を聞いたんです。
零下30度、40度になる、朝起きると建物の中で亡くなっている人がとても多い、亡くなると、その人の囚人服を急いで剥ぎ取って自分のものにしてしまう。そうしないと自分が生きて帰れなかった――という話を、生き残った元囚人の人から聞きました。
そこで私は、ぜひ冬に行ってみたいと思って、次は冬に行きました。
デジタルの時代ではなくフイルムでした――いまも、私はフイルムが多いですが――撮って巻き上げると、フイルムがパチッと割れてしまうほど凍ってしまい、1回シャッターを切ると懐の中に入れて温めて、それからもう1回シャッターを切っていました。

【写真2 ガス室内部】
アウシュヴィッツとは別のマイダネクです(ポーランド、ルブリン郊外のあるルブリン強制収容所)。そこにあるガス室です。ここでチクロン?(ツィクロン?)Bという毒ガスで人びとを殺しました。モヤモヤしているのは、そのガスの染み跡です。今でも残っています。黒いドアの真ん中の白い点、あれはSSマン、親衛隊が、覗くための穴です。
中の人はどうなったか、まだ生きているのか、もう死に絶えたかと、穴から見て、みんなが倒れていたら、ドアを開けて焼却したわけです。

【写真3 丘のようなものがあり、遠方に人がたくさんいる】

これもマイダネクで、人の灰と骨を、積んだものです。後ろに見物の人が来てましたので、大きさを比較するために、人も入れて撮りました。
アウシュヴィッツには、ガス室はないんです、もちろん、ありましたけれども、ナチスが撤退するときにダイナマイトで破壊しました。でも、このマイダネクのものと似たようなものもあったと聞いています。トル

【写真4 高齢の男性】
この方は、スタシャック・レオンさんというユダヤ人です。当時の話をしてくれているところです。
当時の話をすると、昔に戻って、人相がかなり変わってしまいます。普段はもっとニコニコしている方です。

【写真5 高齢の女性】
彼女は10歳で捕まって、ドイツ人にさせられるためにドイツに送られて、ドイツの家庭の養女になった。ところが、そこで、小間使いをさせられました。
この話を私はナチスの取材のポーランドで聞いていたので、今ウクライナで大勢の子どもたちがロシアに連れて行かれ、シベリアの方にも、という情報は、ナチスと同じことをプーチンは行っていると思わざるを得ません。
プーチンさんは、ウクライナのことをナチスだと言っていますが、自分が一番ナチスに近いんじゃないかと思えます。
この方には最近会っていません。1932年に生まれている方ですのでご健在化わかりませんが、生きていらっしゃったら、プーチンについてなんとおっしゃるかなとときどき、思い出します。

【写真6 高齢の男性。写真を持っている】
この男性の腕に番号があります。手元にある写真は、ナチスがアウシュヴィッツに入れたときに撮られた写真です。腕の番号は、英語で言えばマイナンバー、日本語では自己番号、彼らにとっては囚人番号です。

【写真は「いま」しか撮影できません。アウシュヴィッツへ行っても、何万ものユダヤ人がいて、ガス室で殺されるところは撮れません。廃墟となった「かつての収容所」しか、大石さんの写真にはありません。
しかし、大石さんの写真には、過去のある一点から現在までの「時間」が感じ取れます。単なる風景写真でも、報道写真でも、記録写真でもないのです。
時間を写真に込めることで、廃墟から数十年前の人びとの姿が浮かび、沈黙から数十年前の音も聞こえてきます。

■韓国
韓国は、いろいろな写真がありますが、今日はコーリャン慰安婦です。

【写真1 高齢の女性】
彼女は14歳でした。お母さんと綿花の畑で仕事をしていとき、そこにジープで、日本軍の関係者と、韓国人が来て、「娘狩り」をしました。
お母さんが、日本の兵隊の足にしがみついて、「娘の代わりに私を連れて行ってくれ」と叫びましたが、彼女は連れて行かれました。
戦後、彼女は戻ってきましたが、お母さんは亡くなっていて、お兄さんは徴兵で満州へ連れて行かれ戦死して、ひとりぼっちになりました。

【写真2 高齢の女性】
彼女は、13歳で、女学生でした。学校では、日本語での教育で、教師は日本人でした。その教師から、「女子挺身隊に行って仕事をしてくれないか」と言われて、全部で150人が集められ、船に乗って着いたのが下関だったそうです。
彼女は下関から富山の工場へ連れて行かれたそうです。とにかく、お腹がすいて、毎日毎日つらくてたまらなくなり、友だちと2人で逃走した。捕まって戻された。でも、また空腹に耐えがたく、その友だちと逃げたが、また捕まって、今度は軍の慰安所に送られたということです。
13歳で捕まってるわけですから、本当にまだ子どもでした。

【写真3 女性の身体、傷痕】

首から背中、肩のあたりの写真です。
彼女は学校で刺繍が得意でした。「日本地図を刺繍しなさい」と日本人の教師に言われて、刺繍をして、日本地図の周りをムクゲの花で飾りました。すると、教師と軍人が地図を見て、「日本の花は桜だろう、あるいは菊だろう。なんで韓国の花のムクゲを飾るんだ。お前は大変な奴だ」と拷問を受けました。焼きごてで、体中をやられました。この写真の傷は何十年も経っているから小さくなっていますけど。
もう二度と刺繍ができないようにと、爪には焼きごてを差し込まれたそうです。それで爪が真っ黒になっています。
この写真を撮影したのは1992年ですから、だいぶ時間が経ってるので、「傷は小さくなっていますが、記憶は決して小さくなっていません」と。
それだけではなく、彼女があまりの痛さに失神したら、そのまま釜山港から船に乗せられて、日本軍の慰安婦にさせられたということでした。
もっと大勢を撮影していますが、少なくともこの3人は、まだ10代の半ばで軍の慰安婦にさせられた。そういう証言のもとに写真を撮りました。

【解説】ラオスやカンボジア、アフガニスタンなど、まだ傷が癒えていない国の人びとは、異国から来た写真家にまだ完全には心を開いていません。(そういう面もあったかもしれませんが…、まだ戦場だからだと思っています。仲良くなっても、目は和らぎません。戦火のなかで、心身の傷も深く、記憶も生々しいから表情が厳しいのだと私は今でも思っています。)でも、78年前の戦争の被害者たちは、時間が痕を薄めているようで、表情は柔らかです。
大石さんが、いろいろな国へ行き、いろいろな時代の「戦争の痕」を見つめることで、見る私たちは、そういう「時間の差」まで、感じ取れます。

■中国(731)
【中国の「731」は、関東軍防疫給水部本部、通称「731部隊」のことです。生物兵器(細菌兵器)の研究をし、人体実験をしていたことが明らかになっています。】

【写真1 高齢の女性がベッドに座っている】
中国に渡った日本人はたくさんおりました。残留孤児は手厚くもてなされましたけど、残留婦人の多くは捨てられたのと同然の扱いをされました。
これはまだ、ハルピンにいる、帰ることができない残留婦人です。

【写真2 厚手の冬服を着た高齢の男性】
この人は中国人です。731部隊が「マルタ」を運んでいるのを見てしまったと証言しました。
「マルタ」は731部隊が人体実験に使った人のことです。そう呼ばれていました。彼はそれを運んでるの見てしまった。見たら処刑されるのですが、彼は室内の窓からカーテン越しに目撃し、見つかりませんでした。

【写真3 壁だけが残った建物の跡】

731部隊が建てた給湯塔です。ナチスと同じように、撤退するときに爆破しましたが、給湯塔の一部が残りました。

【写真4 壁のようなものに、釘が刺さっている】
冷凍庫です。冷凍実験をしたところです。大きく太い釘があります。この釘に動物とか人間などをぶら下げて、冷凍実験をしました。

【写真5 テーブルに食器のようなものが並んでいる】
731部隊の石井四郎たちの実験道具です。彼らは日本軍の科学者、医師たちでした。これでさまざまな実験をしました。ペストの実験のためにたくさんのネズミを飼っていて、撤退した後、そのネズミが逃げて、近くの村はペストが大流行したそうです。

【対話】
松下 731部隊のマルタを見た方は、普通は生きて帰れないですよね。あの方が生きていたのはどうしてですか。
大石 彼は部屋の中に隠れて、カーテンの隙間からの目撃だったので知られずにすみ、捕まらなかったと話していました。
松下 マルタというのは、すでに死体になっている方のことですか。生きている方ですか。
大石 それは、さまざまです。彼から聞いただでなく、本で読んだ話にもなりますが、生きたまま人体実験された方もたくさんいました。ナチスもアウシュヴィッツで人体実験をたくさんしましたが、日本軍もここでたくさんの人体実験をしました。
松下 恐ろしいですね。
大石 恐ろしいです。

■広島
【写真1 廃墟】

広島県の大久野島、瀬戸内海に浮かぶ小さな島です。たくさんの人が暮らしていましたが、日本軍によって住民は追い出され、ここに毒ガス工場が造られました。その工場の倉庫の跡です。ここで作った毒ガスを、多くを中国へ送っていました。
今でも地中から毒ガスが出てきたという、中国のニュースを聞いたことがあります。この大久野島では日本の毒ガスの70%ぐらいを作っていたので、その毒ガスの可能性が高いのですが、はっきりは分かりません。でも、日本軍の毒ガスであることは確かです。

【写真2 壁。傷がついている】
倉庫の壁です。傷のような染みのようなものは、ナチスのガス室の壁に残っていた毒ガス・ツィクロンBと同じように、染み付いたものだろうと言われています。

【写真3 高齢の男性が病床にいて、医師の手当を受けている】
この人は何も知らないで、毒ガス工場の労働者になりました。軍が「校長先生の給料の2倍出すから来てくれ」と募集したんです。みんな、喜んで行ったらしいです。彼も行きました。1913年生まれです。
後ろにいる方は、毒ガスでやられた人たちの治療をずっと治療する医師で、カルテが4200人分あると言っていました。それほど大勢の人たちが、戦後ずっと、入退院を繰り返しながら、毒ガスと戦ってきたんです。

【写真4 高齢の方が裁縫をしている手のアップ。ヤケドの痕】
広島市は、原爆を落とされました。8月6日です。
この手の方は、全身ヤケドをしました。「整形の手術をしてもらうのに、1ヶ月半かかり、とてもつらかった」とおっしゃっています。
10本の指のうち5本はとうとう治らなかった。彼女は戦争前から和裁で生計を立てていました。手や指がある程度動かせるようになってから、近所の人の着物を縫いながら生計を立てていました。

【写真5 高齢の女性】
いまの手の写真の方、清水ツルコさんです。私にとっては本当に「広島のお母さん」で、清水さんと出会う前は、広島の被爆者の方の写真はなかなか撮れなかったんですが――撮ってはいましたが――思い切って、勇気を持って撮れるようになりました。ツルコさんに、背中を押していただきました。それが今日まで広島の写真を撮れるきっかけとなり、「広島のお母さん」として仲良くさせていただきました。

【写真6 女性】
山岡ミチコさんです。アメリカが原爆を落とした後、10人ほどを「原爆乙女」としてアメリカが招いて整形手術をしました。その中のおひとりです。

【写真7 原爆ドームを背景にした女性】
原爆ドームの前に立ってもらったのではなく、ここに彼女の家があったんです。1929年生まれの方です。
彼女は8月6日、たまたま、お祖母さんの家に行っていました。爆心地から1.5キロのところです。だから被爆はしましたが、助かりました。
そして「ひどいことになったみたいだ」と聞いて、彼女は防空頭巾をかぶって、向かい、爆心地から300メートルのところにある女の家に行きましたが、家はもちろんなく、そこにいたお父さん、お母さん、お姉さんは「炭状」になっていました。彼女は大変ショックを受けて、防空頭巾に骨を集め、「自分はもう生きていけない」と思いました。
広島市は川がたくさんあります。彼女は川で自殺しようと思い川辺に行きましたが、その川は死体がいっぱいで、入水する場所がなかった。それほどの被害でした。
彼女は泣く泣く骨を抱えて、お祖母さんのところへ戻って、報告したら、お祖母さんは気絶して、1週間寝たきりになりました。それからまもなく、原爆症もあって亡くなったと話していました。
原爆ドームの前は平和公園になっていますが、そこには昔は家があった、住宅地だったんですね。
広島中がそうかもしれませんが、平和公園にはたくさんの骨が埋まっているということを、覚えておきたいと思います。

【写真8 夫婦】
マレーシアから来た中華系、華人の方とその奥さんです。
彼が5歳のときに、広島の日本軍第5師団歩兵11連隊がマレーシアのネグリセンビラン州に侵攻し、日本軍によって、村人4500人、あるいは資料によってはもっと多くが、殺されました。彼はそこに住んでいました。
彼の話では、日本刀や銃で殺されたそうです。子どもだった彼は気絶して倒れて、生き延びましたが、家族は全員、親族も全員、殺されました。
この写真は、歩兵11連隊の記念碑があるところです。彼はここや原爆ドームを、私や他の方々と一緒にまわりました。
そして彼は、原爆ドームを指して「私たちがやられた結果ですね」と言いました。その言葉は印象に深く残りました。

■長崎
【写真1 「被爆のマリア」】
長崎です。浦上天主堂が爆心地のすぐそばにあったことで爆撃されました。その教会の「被爆のマリア」です。

【写真2 女性】
彼女は、2.4キロのところで被爆しました。孫が生まれて間もないのに亡くなってしまい、自分が被爆しているせいではないかと非常に悩んでいます。その話をしながら、涙を流していました。

【写真3 樹の前にいる男性】

彼は自分の親族が100人以上原爆で亡くなりました。彼は大ヤケドをし、浮浪児になりました。大ヤケドをすると、誰でもそうですが、うじ虫がわいて腐ってきます。「臭い、うつる、あっち行け」と言われて、食べるものがなく、空腹で飢餓状態だったそうです。
「ほとんどのものを食べた。食べなかったものは、三つだけ。ネコ、ネズミ、人間。それ以外はみんな食べた」と言っていました。
ひどい原爆症になって、その後も苦しみました。もう亡くなられています。
後ろにあるのは楠木で、幹の白い骨のような個所は、原爆でやられて枯れたところです。楠木は行を吹き返して、数十年の中で育ち、このように大きな樹になりました。この樹は学校にあり、彼はそこの小学生でした。

【写真4 男性の背中。傷痕がたくさん】
谷口稜曄さん、有名な方です。「この背中を見たら、記憶してくれ。これは見世物ではない。この背中の周りにどれだけ大勢の死者がいるか、知ってくれ。二度と戦争しないでくれ」と、繰り返し、おっしゃっておられました。

【写真5 港に、女性が立っている】
長崎の爆心地から7キロのところ、網場(あば)のこの場所で5歳だった彼女は被爆しました。一緒に遊んでいた女の子は、しばらくして白血病で亡くなりました。
網場では、たくさんの人が白血病で亡くなりました。彼女もガンを繰り返しています。明らかに原爆が原因だと思う病気になっていますが、彼女たちのことは「被爆体験者」と言って、「被爆者」と区別しているんです。

【対話】
松下 7キロという離れた所で被爆したからですか。
大石 それがとっても不思議なんです。広島の被爆地は円形で、東西南北同じ距離の範囲ですが、長崎の方は、旧市街地だけが被爆地と定められています。市の西と東に300メートル級の山々があります。原爆は500メートルくらいのところで、「2つ目の太陽」を現したのですが、300メートルの山があるということだけで、被爆地ではないということになって、被爆者として扱われないから、手当も出ないし、白血病という被爆者特有の病気になっても被爆者と認められずにいます。
「被爆体験者」という、区別というか差別を受けてるんです。これは本当にひどい話だと思います。裁判をしましたが、裁判にも負けました。安倍政権の時代です。
松下 長崎では、4年前の2019年の9月に、大石さんの写真集『長崎の痕』の出版と長崎新聞社が100周年で、その記念事業として、長崎新聞社の文化ホールで大石さんの写真展が開かれました。
被爆者をずっと撮り続けられて、被爆者の方ともトークもされ、私もお招きをいただいて、当時の長崎市長と対談をしたことが、つい昨日のような感じがします。
大石 そうでしたね。松下市長と長崎市長の田上さんとの対談は、とっても良かったんです。武蔵野のこの一帯が、中島飛行機の工場があったため、日本で最初の空襲を受けたことを、日本の人たちはあまり知らないですが、あのときは、その話を松下市長が本当に分かりやすく、田上市長にしてくださいました。とてもいいトークをしていただいて、私もそばで聞いてて嬉しかったです。

■沖縄
沖縄は、日本で唯一の陸上戦になったところです。陸上戦でしたので、カンボジアと同じように、いまもあちらこちらに、当時の頭蓋骨があります。

【写真1 埋もれている頭蓋骨】
これは子どもの頭蓋骨です。子どもが犠牲になる。「大人がやった戦争で、なんで自分が死ななければならなかったの」と訴えているような感じを受けました。

【写真2 自然壕から発掘された遺品に、手を合わせている20人くらいの人びと】

陸上戦になりました。沖縄には自然壕がたくさんあるので、村人は、その自然壕に避難をしましたが、そこに日本軍もやってきて、軍民一体になったことで、犠牲がより大きくなりました。
この自然壕は1984年に発掘されました。そこから遺品が出てきました。自衛隊員が発掘したんですが、出てくるたびに村人はこのようにお祈りして、「これでやっと成仏できるでしょう」「明るい所に出て来られてよかったね」と口々に言っていたのが、とても印象的でした。

【写真3 高齢の女性】
1921年生まれの女性で、撮影は15年ぐらい前です。
沖縄では、牛島中将が6月23日に自決し、この日をもって終戦というか、軍隊が解散しました。だから、これで一応、敗戦となりました。
彼女の2人の子どもは、21日と22日に、栄養失調で亡くなったんです。もう少し早く終わっていたら、私の2人の子どもは助かったのに、6月が来ると、とにかく苦しい、苦しい。6月になると眠れなくなる」と、おっしゃっていました。

【写真4 高齢の女性と、ネコを抱いた女の子(孫)】
座間味島という所は、いろいろなことがありました。
この写真の女性の家族23人が、日本軍の命令によって集団自決をしましたが、春子さんはその生き残りで、だからこそ生まれたのが、お孫さんです。
これは単純でありながらとても複雑です。政治的には、「日本軍は命令してない。住民が勝手にやったことだ」と、まかり通っていて、教科書からもそれが削除されていると聞いています。
でも、彼女は確かに言いました。
「前日に、役場の助役のお兄さんが帰宅して、『軍の命令で、明日どこどこの壕に全員集合して、そこで集団自決をしなければならない。アメリカ軍がやってきて、生きていたとしても、ろくなことはない。男も女も屈辱な目にあわされる』と言いました。それで、どうせひどい目にあうんだったら、自分たちで死のうではないかとなり、命令に従おうという話になって、みんなが納得して、指定の壕に集まった」
当時17歳の春子さんも行ったんですが、その壕は満員で入れなかったそうなんです。それで中にいる村人から「別の壕へ行きなさい。向こうで自決しなさい」と言われたそうなんです。
彼女は、「ああそうか、どこへ行こうか」とウロウロしていたら、アメリカ軍の姿が見えたので、急いで森の中に隠れて生き延びたということです。
そういう運命の人です。あと少し早く行っていたら、彼女は、言うまでもなく……ですね。

【写真5 左にフェンス、右に民家。その間を傘をさして歩く人の後ろ姿】

戦後、アメリカ軍が沖縄を占領しました。沖縄の人の土地を奪って、フェンスを作りました。
写真のフェンスの左側はアメリカ軍基地、そして右側、本当に狭く道路もないぐらいのスペースに建ち並ぶ住民の家々です。本来はフェンスの中で暮らしていたのですが、外側に追い出されて、ここに住んでいるのです。
私が撮影しているところを通った人がいて、後ろ姿の二人です。「さらに向こうの方に自分たちの家があるのでそっちへ帰る」と聞いて、私は同行してその夫婦にいろいろな話を聞かせてもらいました。

【写真6 泥だらけの女の子】
これはアメリカ軍の1フィート運動の中のフイルムのひとコマです。
「震える少女」として有名ですので、ネットでも検索できます。
私が最初に沖縄を取材したのは1972年です。それからずっと通っていますので、この写真もよく知っていましたが、ご当人のことは知りませんでした。
縁あって、それを知ることができました。この「少女」に会えたのです。

【写真7 微笑んでいる女性】
末子さんです。この写真のときの話をしてくれました。「あのときは怖かった」と言っていました。あの場所がどういう場所だったかも詳しく話してくれました。

【写真8 小石が山のように積まれている。それを眺めている人びと】
これは「石の声」という高校生のイベントです。
高校生がたくさん集まって、小石に番号をつけました。1つの小石にひとつの数字を書き込んでいくイベントです。何日もかけて行ったのですが、書く数字の桁が増えていき、
最終的に23万6095の数字がついたわけです。1996年のことです。【注・23万6095は、沖縄戦での犠牲者の数】
高校生たちは最初のうちは、「なんでこんな数字ばっかりふるの? 手がかったるいさぁ」とか、「もう飽きたさぁ」とか言って、みんなで冗談半分でしたが、だんだんだんだん数字が多くなるにしたがって、シーンとなってきました。
最後の方になってくると、胸が痛くなってきたと思うんです。それで、すすり泣きが聞こえてきて、終わったときに、お祈りをしながら、泣いてない人はいませんでした。
私はここにいて、もちろん一緒に泣いてたんでが、その涙は、「ああ、子どもたちに伝わったな」ということですね。子どもたちに、命が数字でなく、伝わったーーこれが私の涙でした。
子どもたちも、おそらくそういうことだったと思います。
やっぱり数字は数字で……、数字は政治的でもあるので、ポル・ポト政権による大虐殺は、少ない数字だと100万、多い数字だと300万となったりするわけですね。トル
けれども、やっぱり人の命っていうのは、そこにひとつひとつあるっていうこと。それを、沖縄の子どもたちに何とか伝えたいと、佐喜真美術館の館長と、学校の先生との長い話し合いによって、このイベントが設けられたということでした。
これは、写真としては何でもない写真ですが、このときのことをいつもいつも思い出します。
最後は6月23日でしたが、暑いさなか、子どもたちが本当に命の重さを感じてくれたことに、胸が熱くなる思いです。

【外国での取材は、通訳を介してのものが多いだろうが、日本は通訳なしで対話ができる。その対話の結果、こういう写真が生まれる。過酷な経験を語ったはずだが、そこには、その人の普段の顔があるように感じる。

■武蔵野
先の戦争で最初に空襲を受けたのが武蔵野でした。1944年11月24日、中島飛行機を目当てにこの一帯が空襲され、もちろん、大勢の犠牲者が出ました。

【写真1 住職】
お寺の方です。小学校2年生のときに、11月24日の爆撃で、危うくやられそうになったということです。今でも、そのときのトラウマがあって、お墓に入った子がまた出てきて、またお墓に入っていく夢を見たりして、うなされることがあるそうです。

【写真2 笑顔の女性】
彼女は、当時12歳ぐらいでしょう。家に、大勢の日本軍が間借りしていました。自分たち家族は小屋住まい。
4月12日にも、1トン爆弾が落とされて、大勢の日本兵たちも亡くなりました。その遺体を、子どもでしたが運んだそうです。兵隊たちの死体を運ぶのは気持ち悪かったけれどそんなこと言っていられない。「泥まみれになった遺体を、雨戸を担架にして運んだ」とおっしっていました。

【写真3 男性。ハガキをたくさん手にしている。】
当時、8歳でした。彼は米軍のグラマン機に追いかけられて、畑の中を夢中で逃げましたが、数メートル先に弾が落とされ爆発。一緒に逃げていた友だちはみな、彼はやられたと思ったそうです。自分も「やられた」と思ったと言っていました。トル
手にしているのは、2人のお兄さんからの戦地から来たハガキなどです。お兄さん2人は兵隊になり、2人とも戦死しました。お父さんがペンキ屋さんで、彼は末っ子。将来は生物学者になりたかったものの、2人のお兄さんが戦死したので、彼がペンキ屋さんを継ぎました。
「蜘蛛博士」としても有名で、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

【写真4 男性】
当時、10歳でした。11月24日だけでなく、何度も爆撃されています。あのときは、米軍のB29が90機くらい来たんですが、その後も何度も何度もやられています。
その中のどれだったかは聞きませんでしたけれども、空襲警報が鳴ったので、急いで庭に手掘りした小さな防空壕に隠れたら、ドカーンとやられました。
ちょうどお昼で、「お弁当を食べようと思っていたところにドカンとやられたので、お弁当が泥だらけになってしまい、食べられなかった」と言っていました。
いかにも子どもの記憶で、臨場感がありますね。

【写真5 女性】

高橋光子さんです。愛媛県で、学徒動員で半年間、風船爆弾を作らされていました。
風船爆弾は日本全国で9300個ほど作ったそうです。太平洋の気流に乗せてアメリカに飛ばすためです。実際に飛ばしたのは50個ぐらいだったらしいです。彼女はそれを作らされました。
直径10メートルで、和紙を4000枚貼り合わせて、コンニャクのりで作ったそうです。
知る人ぞ知る話ですが、風船爆弾は気流に乗って1個だけオレゴン州に落下して、キャンプに来ていた男の子が死にました。だから日本が、ハワイを除いてアメリカ大陸で殺傷したのは、その男の子です。
高橋光子さんは作家で、『ぼくは風船爆弾』、『家族の肖像』などの著作があります。

【写真6 女性】
彼女は広島で被爆しています。東京に住んでいましたが、お父さんが広島大学に転勤になりました。彼は広島で、風船爆弾の中に入れるネズミの研究をしていました。
2000匹のネズミを研究していたそうですが、原爆によってネズミは全て死んでしまい、同時に、風船爆弾の中には1匹のネズミも入ることはなかったそうです。

【写真7 女性】
広島の被爆者です。被爆したのは爆心地から4.8キロにある宇品の船舶司令部。自宅はもっと爆心地に近かったそうです。
「1年間も生理がなくて、結婚はしたものの、流産ばかりで子どもに恵まれなかった。原爆のせいだと思う」とおっしゃっておられました。

【写真8 女性】
広島の爆心地から2.3キロで原爆にあいました。玄関でお兄さんと遊んでいたときに、ピカッとなったそうです。「いろんな記憶があるけれど、一番怖かったのは、逃げた川にたくさんの死体が浮いていて、死体が満潮と引き潮によって、ゆらゆらゆらゆらしていたのが、とても怖くて、今でも忘れられない」とおっしゃっていました。
東京芸術大学に進学しましたが、彼女が広島出身と知った学友から、「えっ、広島?感染る」とか「汚い」と言われ、そうした差別的な言葉に苦しみ、学校を辞めることになりました。
学校では、お琴の学科で、今でもお琴を続け、教えてもおられます。

【写真9 女性】
広島で12歳のときに原爆にあいました。8月6日、彼女の学友は全員が、建物疎開に駆り出されて死傷しました。けれど、彼女だけはそこに居ませんでした。
実は、荷物疎開のために田舎へ送った荷物の中に辞書を入れてしまい、それを前の日の5日に取りに行ったものの、帰るバスに乗り遅れて泊まることになりました。
そのため、8月6日8時15分に、彼女は広島市内にはいなかったのですが、すぐに帰ったことで被爆をし、同時に惨事のさまざまな記憶も残っているということです。

【写真10 男性】
長崎で被爆し、武蔵野市に住んでいます。
彼は被爆しながらも甲子園まで行った野球選手です。武蔵野市でも、素人野球のコーチなどをされておられます。

【写真11 男性】
広島で爆心地から3.6キロのところで被爆されました。
学校にいましたが、あまりにもすごい光、ピカっという光と、ドーンという音のショックが大きくて、そのあとのことなどほとんど覚えてないそうです。
音楽が好きで武蔵野音大に進学し、ヴァイオリンを学び、ずっとヴァイオリニストです。

【写真12 女性】
広島で、2.3キロのところでの被爆です。
自宅近くの防空壕で男の子と一緒に遊んでいたときでした。彼女は防空壕の中にいて、助かりました。男の子は大ヤケドをしたけれど、その後のことは分からないそうです。彼女自身はその後、原爆症にかかることもなく、元気で過ごしています。

写真は、ここまでです。

松下 ありがとうございます。大石芳野さんが50年、半世紀にわたって撮り続けてこられた、カンボジアから、武蔵野の戦争被害に遭われた人びとまで、写真とともにご紹介をいただきました。

【解説】ベトナムに始まった旅は、大石さんの地元・武蔵野に帰ってきて、終わりました。写真を見ただけでは、「単なる廃墟」や、「普通のおばあさん」「不機嫌そうな若者」が、大石さんの解説によって、どんなに過酷で悲惨な痕を持っているかが明らかになっていきました。それは、写真だけではわからないし、言葉だけでは感じ取ることはできないものでした。
写真家は、「撮る」だけで、語ろうとしないタイプのほうが多いでしょう。取材して信頼関係を得てから撮る、そこで聞いた話を書く(語る)というスタイルは、大石さんが半世紀かけて打ち立てたものです。】

~質疑応答編に続く~

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