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NEW!!【活動報告】第25回「映画『太陽の蓋』アフタートーク(ゲスト:笹岡ゆうこ 松下玲子)」

『太陽の蓋』上映会、2日目のアフタートークは、武蔵野政治塾事務局長でこの映画のプロデューサーである橘民義の司会で、前武蔵野市長の松下玲子さんと、12月の武蔵野市長選挙の候補者だった笹岡ゆうこさんをお招きしました。

橘民義 橘と申します。武蔵野政治塾の事務局長、そして『太陽の蓋』のプロデューサーです。
みなさん、この映画、どうでしたか。初めて見たという方、いらっしゃいますか。
【大多数が挙手】
これは、すごい。ありがとうございます。武蔵野では何回も上映会をやっていただいたので、今日はもう一度見ようという方が多いだろうと思っていたのですが、初めての方が多い。本当にありがとうございます。
この映画は2016年に渋谷のユーロスペースで公開され、その後、日本各地で上映されましたが、世界中でも上映されました。とくにフランスでは180の映画館で上演され、日本よりも多いんです。
元総理の菅直人さんと一緒にフランスに行ったときは、アフタートークで、夜中の12時頃まで本当に激しい議論をしたこともありました。
その後、日本でも、3.11が近くなったら上映することを繰り返してきております。そして今日は、その映画上映と合わせて、アフタートークをさせていただきます。
今日のスペシャルゲストは、まず、笹岡ゆうこさん。武蔵野市民の方はよくご存知だと思いますが、去年の12月の武蔵野市長選挙に立候補されて、残念ながら、僅差で負けてしまいました。今日は、その選挙の話も出ると思います。
もうおひとりが、前武蔵野市長の松下玲子さん。笹岡さんが出た市長選挙は、市長だった松下さんが辞任したから行なわれたんです。そういう関係のお2人です。市長を辞任した人、そのあとの選挙に出た人、このお2人を今日はお迎えして、選挙の話もしたいと思っていますが、まず、映画、原発の話です。

■3.11が政治家を志すきっかけだった

【まず、笹岡ゆうこさんが、2011年3月11日をどのように過ごしたかなどを、自己紹介を兼ねて話されました。】

笹岡 私は2015年に武蔵野市議会議員として活動を始めたんですが、まさにこの3.11の原発事故が、政治を志した、本当の原点になっています。
そのころ何をしていたかというと、武蔵野市で、生後7カ月ぐらいの子ども、赤ちゃんを抱えていました。地震も津波も、原発事故も、人類が経験したことのないような非常事態で、それが幾重にも重なっていたなかで、皆さんもそうだったと思いますが、どうやったら子どもを守れるのか、これから社会はどうなっていくのか、そういったことを考えました。それが、政治を志すきっかけとなりました。
映画を観て、少し忘れていた細かなことも思い出しました。このように映像として残っていることが、どれだけ大切なことなのかを実感しながら、見ていました。

■武蔵野市の水が安全ではなくなったことへの不安

【続いて、松下玲子さんも、3.11の経験を語ります。】

松下 私は2005年に都議会議員選挙に出たのが、政治家としてのスタートでした。2011年は、再選して2期目にあたり、笹岡さんのお子さんは7カ月だったそうですが、私の子どもは2歳でした。3月11日は都議会の最終日で、本会議が終わって控え室に戻ってソファーに座った途端に、すごい揺れを経験しました。それが2時40分(46分)でした。
その1週間後だったでしょうか、その年は統一地方選で、武蔵野市も市議選があり、私も市内をいろいろポスターのお願いなどで回っていましたら、防災無線が鳴り響きました。「武蔵野市に水を供給している葛飾区の浄水場から、放射性物質が検出されたので、乳児は水の飲用を控えるように」という放送だったんです。私の子は2歳でしたので、もう「乳児」ではなく「幼児」なんです。その無線を聞いて、赤ちゃんに飲ませるのは駄目だけど2歳の子には飲ませていいのかと、すごく心配になりました。
当時の武蔵野市は、乳児にはペットボトルの水を無償配布していたんですが、赤ちゃんだけで、1歳・2歳の子どもには配布はなかったんです。買いに走りまわったんですが、どこにもペットボトルの水は売っていない状況でした。
これもあって、原発事故の悲惨さ、いざというときには東京でも被害があり、命を脅かすものだと痛感しました。私は福島原発事故後は、脱原発、原発のない社会を実現したいという思いを強く持っています。
そのため、この映画も、2016年から、武蔵野市で何回も上映会を開いてきました。
映画の最後に2015年の様子が出てきましたけど、今も汚染された土の問題は解決していませんし、水は海洋放出が始まりました。本当に大丈夫なのかと不安がいっぱいあります。
みなさまと、そういう思いを共有しながら、原発のない社会を目指してがんばっていきたいと思っています。

■3.11後、子どもを連れて「西へ」向かった

【ここから、橘さんを司会にしたトークが始まります。】
橘 笹岡さんは小さな乳児をかかえての3.11でした。そのとき、どのような行動をしましたか。

笹岡 それまでは民間企業に勤めていて、新聞も日本のものばかり見ていたんですが、なかなか情報が出てこなかったので、海外などさまざまな所からの情報も得るようにして、本当はどれが正しいのだろうかと思いながら過ごしていました。
原発の建屋が水素爆発をした画像が流れました。そして、松下さんがおっしゃったように、「赤ちゃんはペットボトルの水を飲みなさい」と言われ、空気と水がやられるなんて思っていなかったので、ものすごい恐怖でした。若くてまだお金がなかったんですが、とりあえず西に行きたいと思いました。
西へ行くと決断をするまでも、知り合いもいないし、お金もかかるし、どうしたらいいのだろう、後ろめたさもあるしと、さまざまな悩みがあったんですが、夫に相談し、そうしよう、最善をつくそうということになりました。
そして初めて、7か月の子と一緒に、新幹線での長旅をする決断をしました。本当にドキドキしました。片道切符で行ってますから、お金も心許ない状態で不安でしたが、新幹線に乗ると、ベビーカーがたくさんあったんです。そのとき、同じ思いの人がこんなにたくさんいたのかと思いました。
事故からずっと、張り詰めていたんですが、息子が前の席のおじさんの髪の毛を掴んで、笑ったんです。3.11からずっと張り詰めて過ごしていて、ずっと笑えなかったんですが、ようやく少しほっとした瞬間を覚えています。

橘 ご主人は東京に仕事があるので残ったけど、赤ちゃんを連れて西に移動したということですね。
映画(『太陽の蓋』)の中にもありましたが、在日のアメリカ人には本国から、何キロ以内の人は出たほうがいいという指示がありました。だから、たくさんの人が出ていった。アメリカに帰った人もいます。中国人もそうです。それだけ危険な状態だった。そのことが、なかなか伝わっていない。伝わっていないどころか、そんな危険なことだったんだという認識が少ないのが現状です。
その危険を、一番よくわかってた人がいます。そのことを認識し、がんばっていた人が会場にいるので、スペシャルゲストとしてお呼びします。菅直人さん、どうぞ。

【菅直人元首相が登壇します。】

■「最悪のシナリオ」が現実になっていたらどうなっていたか

橘 菅さんにとっては、この映画は自分を見ているようで、気持ち悪かったかもしれませんが、この映画を引っ提げて、2019年でしたか、一緒にフランスへも行きました。日本とは違って、「菅直人が来る」と、すごい人気でした。映画館は満員で、長い行列ができていて、次の回まで待っているくらい、すごかった。
世界の人は、あのとき菅さんがどうやったかを、よく知っているんですよ。それで、映画も見たいと集まってくれました。
さて、菅さん、「最悪のシナリオ」というのがありました。菅さんが、原子力委員会の近藤委員長に依頼して作ってもらったものです。それについて、お話ししていただけませんか。

菅直人 『日本沈没』という映画がありました。あれは日本全体が沈没し、国民全員が日本から出て行かなければならない話でした。3.11では、そのことが頭によぎりました。
日本全体ではないにしても、少なくとも関東全域から人々が逃げていかなければならないリスクが非常に高かったと、今でも思っています。それを、何とか防いだ。「防いだ」と言っていいかどうかは分かりませんが、まさにこの映画にあるように、そういう最悪の事態にはならなかったんです。
私は原子力については、大学で少しは勉強しましたし、ある程度は必要だろうという立場でしたが、あの事故以来、原子力はエネルギーとして使うべきではない、必要な全てのエネルギーが、再生可能エネルギーで十分に供給可能だと確信を持ちましたので、これからも原発のない世界を作ろうと、微力ながらがんばっていきます。【拍手】

橘 菅さんが総理だったから、ああやって、東電に乗り込んで、「撤退するんじゃない」と言えたと思います。東電も、現場は本当によくやっていたと思うんですよね。現場の人は撤退なんて考えてもいなかった。だけど、本店のみなさんが、勝手に、撤退しないと現場の人がやばいと考えたんでしょう。でも、現場の人が撤退してしまったら、とんでもないことになりますよね。

菅 暴走している原発を放置することになります。本当に4号機の状況は危なかったので、放置した場合、何か月かたてば、関東全域から避難しなければならなくなる。そういう事態に陥りかねなかった。そこが、いろいろな人の動きもあって、ギリギリ、何とか食い止めた。今でも一部、危ない状況がありますけれど、なんとか、押し止めることができたわけです。

橘 「最悪のシナリオ」になってしまうと、半径250キロ圏までは退避しなければならなくなる、最悪の場合ですが、東京まで人が住めなくなるところでした。しかし、それをすぐに発表したらパニックになるという、そういうジレンマがあったと思います。

菅 まさにそうです。
もう、原発がなくても電力は十分に足りることが証明されています。ドイツは原発を止めて、再生可能エネルギーですべての電力を供給できているわけですから、日本もできるはずです。
私は原発や、化石燃料も電力に使うのはやめて、100%、再生可能エネルギーに変えるべきだし、それが政治の役割だと思っています。いつまで政治家を続けられるかわかりませんが、少なくともこの問題だけは最後の最後まで取り組んでいきたいと思ってます。

橘 ありがとうございます。菅さんは、もちろんまだ現職の衆議院議員ですけれど、総理を辞めた後も、「原発はだめだ、自然エネルギーだ」という活動をずっと続けていらっしゃることを、私は力強く思っています。今後も、がんばっていただきたいと思います。

【拍手のなか、菅直人さんは退場されました。】

■原発事故の恐ろしさを忘れないでほしい

橘 松下さんも、都議会議員、市長とやるなかで、脱原発を主張し、菅さんと一緒に行動してこられました。それなのに、どうして、原発がいまだに支持されていると考えますか。

松下 本当に、不思議でしょうがないです。自民党の裏金事件と表と裏なのではないかと思えてしまいます。
おカネによって政策が歪められているじゃないですか。エネルギー政策も、おカネをたくさん出すところによって歪められているんではないか。冷静に考えて、原発は、地震大国・日本にふさわしくないエネルギーだと思います。
1月1日、能登半島で地震がありました。原発反対運動が起きてなく、珠洲に原発ができていたらどうなっていただろうと思うと、恐ろしくなります。その直後には、東京でも、首都直下地震を思わせるような東京湾を震源とする地震がありました。これだけ地震が頻発している国なのです。いざというときのために避難計画を作らなければいけないのですが、避難計画なんか無理ですよね。何万人、何十万人と避難できる場所なんてない。原発はふさわしくないという答えが出ているはずなのに、原発を後押しする。
最近気がかりなのは、脱炭素と原発政策をセットにして、脱炭素のために原発を再稼働する流れがあることです。本当に不思議です。どうしてみんな、3.11、東日本大震災、福島現場事故の恐ろしさを、13年で忘れてしまっているのか、忘れないで欲しいという気持ちを強く持っています。

橘 そうですね。原発は本当はすごく怖い。菅さんが話したように、日本に住めなくなるくらい、大きな事故になる可能性がある。一旦事故になったら止める方法がない。福島は奇跡的に何とかなったけれど、その奇跡が起きなかったら、東京にも住めなくなっていた。そういうことを、みんなが本当に知り得たら、「原発、ちょっと待て」となるんだけれど、うまく伝わらない。早く電力が欲しいということに負けてしまう。
笠岡さんは、この映画を見て原発というものをどう感じていらっしゃいますか。

笹岡 まず、地震大国、災害大国である日本に、これだけ多くの原発が作られていることを、把握していなかった自分を、とても反省しました。
子どもが生まれ、その子の世代の将来はどうなっているのかを、具体的に心配するようになったとき、私たち大人はちゃんと責任をはたすべきだと思いました。はたして原発は残していいのか。最終的な処分が決まっていないものを使っていいのか。こうやって事故が起きたとき、その周辺の方々の暮らしも、生業(なりわい)も根こそぎ持っていかれてしまう、そんなものを残しいいのかと、思っています。
そういったことを、まったく知らないで暮らしてきた自分を、とても反省しています。子どもたちの世代に、きちんと責任をもって、「最善をつくしました」と言えるように、何かできることはないかなと思って、気づいたら、政治の場にいたということです。ですから、私は明確に、原発には反対しています。

橘 たしかに、どうもメディアの論調も、何となく、原発を再稼働しないと日本はエネルギーがないんだ、高い石油を買っているんだ、石炭も買っているんだとなっていきがちなんです。
だけど、そうじゃないでしょう、と。いったん事故が起きたら国が滅びるようなものは、とりあえずやめて、考えましょうということです。
絶対に事故がないことはないわけです。そこはもう少し議論も必要でしょうけど、
原発は、そんなにも怖いものだということを知らせるのが、この映画の意味だったんです。
ここで、会場の皆さんから、お2人か私でもいいですが、原発やこの映画に関してのご質問がありましたら。

■なぜ自民党から立候補しないのか

【数名の方が挙手。そのおひとり、女性の方が、笹岡さんに質問しました。】

会場の方1「悪夢の民主党」と言われたのに、なぜ自民党を選ばずに立憲から立候補したんですか?

笹岡 残念ながら、私は立憲民主党には所属していなく、無所属なんですけれども、なぜ自民党ではないのかというご質問ですよね。たしかに、立ち位置としては、自民党ではなくリベラルの側です。
子どもたちの世代にちゃんとしたものを残したいと、さまざまに考えました。そのときの政権がどうだったかというよりは、将来的に子供たちの社会にとってあるべき姿、人々の命と暮らしと人権、平和を守っていくことを大切にしておりますので、自然と、いわゆるリベラルの立ち位置にいます。
【質問された方が、拍手】

橘 これは、自民党へ行けばよかったのにという質問でなくて、いかなくてよかったということですよね。

会場の方1 やっぱり3.11の後、民主党叩きがすごかったので、それなのに、と思ったんです。

橘 質問の趣旨がよくわかりました。笹岡さんも松下さんも政治家なので、いろいろな思いがあると思います。私から松下さんに質問ですが、なぜ最初の選挙は民主党(2005年)から立候補したんですか?

松下 私は当時、松下政経塾で研修をしていました。2005年に都議選に出ませんかとお声をかけていただいたのが立候補のきっかけです。松下政経塾出身議員は、ほとんどが自民党なんです。大臣になられた方もいらっしゃいます。民主党から出た人は、そんなにいなかった。
ただ、私は松下政経塾に入るときから、自民党支持ではなく、民主党や社民党を支持していました。社民党の議員の学生ボランティアをしていたこともありました。平和、人権などの政策から、民主党を選びました。自民党へ行こうと思ったことはないんです。

【話が原発からそれてしまいました。橘事務局が、原発についての質問を求めます】

会場の方2 あのとき(原発事故のとき)、私の記憶が定かであれば、いよいよ東京にも放射能が流れてくるという情報を知った小沢一郎さんが、真っ先に逃げたという記事が、「文藝春秋」だったかに書いてありました。本当に小沢一郎さんは、東京から離れて逃げたんでしょうか?

橘 私はその記事を読んでないし、確認していません。小沢さんが本当に逃げたのかどうかは分かりません。

会場の方2 菅さんはご存知なんじゃないですか。

【客席にいた菅直人さんが、「私もそのウワサはチラッと聞きましたが、半分はウワサのたぐいだと思っています。たしかなことは知りません」と発言。】

■原発は事故が起きたら何もできない

会場の方3 『太陽の蓋』はYouTubeで前に見ており、本日、3回目か4回目です。じっくり拝見させていただきました。よくできているなと思いました。脚本を書いたのは橘さんですか?

橘 脚本は、専門の脚本家に書いていただきましたが、半年間、私も加わって、「これはまずいだろう」「これは言い過ぎだろう」「これは事実とちょっと違う」「違ったらどうする」とギリギリまで、意見を言いました。この映画が、いままでの映画といちばん違うところは、実在の政治家、実在の総理大臣、しかもまだお元気で活動されている方が、実名で出てくることです。菅直人さん、今日もお元気ですが、そういう方が実名で出る映画はそれまで日本にはないんです。ですから、リアルに徹しようと考えました。
菅さんだけでなく、枝野さんも福山さんも実名で出てきます。そこにリアリティを求めたんです。
脚本も、あとで文句を言われないように、事実にできるだけ近くということで作りました。

会場の方 3 この映画で一番、感心したのは、最後のほうの場面です【主人公の新聞記者が、福山官房副長官に取材しているシーン】。(福山さんが)「情報がなかったんです」と言い、記者が「でも情報があったら何かできたんですか」というあの問いです。これに僕はいちばん感心しました。
結局、そこに一番のメッセージが感じられました。原発はそもそもやったらまずいでしょう、いくら情報が上がってきても、その中で何が起こっているかわからないということを、端的に会話の中で象徴的にあらわしているところが、「ああ、これ、やられたな」と思って感心しました。

橘 いちばんいいことをおっしゃってくださいました。本当に、原発は暴れ出すとどうしようもない、誰も止められない。「最悪のシナリオ」にある250キロ圏内、東京まで避難区域になるのはなぜかというと、止められないからなんです。
あの時は4号機が主に問題だったんですけど、4号機を見放して撤退したら、3、2、1もダメになる。実際、1と3はメルトダウンしていたんですが、止まっているものも、ダメになる。無事だった福島第2も放射能が近づけばい人がいられなくなる。諦めなければならなくなる。
そういう話だったので、いまおっしゃったように、情報があるかないかという、そんな問題ではないんですよ。それだけ、怖い問題だということをご理解いただければと思います。

会場の方3 もうひとこと、いいですか。次の映画、第2弾に期待しているんですが、事故の次の具体的な被害を描いたものです。端的には東海村のJOC臨界事故です。事故で被爆した方が悲惨なめにあいました。放射能は、もっとマイルドな被害で何年もたつとガンになるなどもあるんでしょうが、本当のリアルな恐ろしさを、もうひと押し、伝えられないかなと思って、そういう映画を期待しています。

橘 ありがとうございます。じつは、町がゴーストタウンになったという映画を、『太陽の蓋』のスピンオフとして3つ作り、公開してるんです。だけど、あまり見てもらえていないんです。
たしかに、もう一本作ればいいんですが、私も色々なことをしているので、と言い訳してもしょうがないですね。言われる通り、怖さを伝えるには、次の状況を見せないと分からないかもしれません。

■安全神話を信じていたと反省

橘 私ばかり話してしまったので、ゲストのお2人に話してもらいましょう。
松下さんは、この映画の上映会を武蔵野市や色んな所で開いてくれましたが、なぜ、自分で上映会を開こうと思ったんですか。

松下 私自身が福島原発事故が起きる前は、原発政策に対してほとんど強い関心を持たずに、安全神話をそのまま信じていたひとりであったことへの反省からです。原発は安全だ、必要なエネルギーだと思い込まされていました。
福島の事故の後、脱原発の活動をしていると、活動してる方たちから、「私はチェルノブイリの時からやっているのよ、福島からなんて遅いわよ」とのお叱りをいただくんです。「すみません、チェルノブイリのときはまだ若かったんで」と言ったこともありますが、気づいたときに動かなければ、という思いです。
遅くても、気づいたときに一生懸命動こうと、私にできることを微力でも、やっていこうという思いで、これらも上映会を通じて、問題意識を持ってくださる方、仲間を増やしたいなという思いで取り組みます。

■3.11で政治に目覚めた

橘 笹岡さんは、3.11の後、政治に目覚めて、山田正彦さん(菅直人内閣の農林水産大臣)のところに学びに行ったそうですね。

笹岡 原発について、新聞以外の、さまざまな情報を取っていたなかに、山田正彦元農水大臣が主にFacebookで出していた情報があり、そこに政治塾を始めるとあったので、行ってみたんです。それまでは、そんな突飛な行動をあまりしたことがなかったんですけれども、たとえば、「給食の安全を考える」という会に、衆議院議員会館にひとりで行くようになりました。おとなしくひとりで動き始めていたなか、その延長線上にそういった勉強会があったんです。
そして、自分の声を代弁してくれる人がいないのであれば、自分がその選択肢になるのも、大人としての責任を果たすことのひとつではないかと思って、武蔵野市の市議選に出馬しました。

橘 山田正彦さんは農業の専門家ですよね。そういうところに惹かれたということですか?

笹岡 そうですね。あと、とても政治不信になっていたので、このひとは嘘をつかないのではないかと直感的に思ったんです。振り返ると、そういうことになっていたんだなと思うしかないぐらい、自然と繋がっていったという形なんです。(山田さんは)食の安全について、いまでも活動していらっしゃるし、子どもたちの世代のために、ぶれずに日本のタネを守って、食を守っていこうと活動されていて、私は共感しています。
水と空気、人びとの暮らしが危ぶまれことを考えると、人の暮らし、命あるものの暮らしが、どれだけ尊いものかをすごく感じましたので、そこの原点とリンクしていると思います。

橘 そうですよね。原発で汚染されたら食べられないし、今でも福島から、東電が言う「処理水」、汚染水かもしれませんけど、それを出し続けたら、魚が食べられないだろうと漁業者は怒っています。原発が、食の問題に非常に大きな影響を及ぼす関係にあることは間違いないです。

■市長選での敗北を受け止めて

橘 そういうことで、笹岡さんは2015年の市議選に立候補して当選して、活動を続けてきた。そして昨年暮れの市長選に立候補された。せっかくだから、ここで市長選の話をしたいと思います。

【武蔵野市長だった松下玲子さんが、国政にチャレンジすると決意され市長を辞任したため、12月に市長選が行なわれ、リベラル系市政の継承者として、笹岡さんが無所属(立憲民主、共産、れいわ新選組、社民、武蔵野・生活者ネットワークが支持)で立候補しましたが、無所属で自民・公明推薦の小美濃(おみの)安弘さんに僅差で負けました。】

橘 笹岡さんは候補者だったので、多分言いにくいと思うけれど、私が想像するに、松下さんにもっと応援して欲しかったんじゃないかと思うんだけど、どうですか。

笹岡 市長選で、負けてしまったわけです。18年間続いてきたリベラル側の市政が、私が候補者のタイミングで、一度幕を閉じてしまうことなった。このことに大変な責任を感じて、武蔵野市民の方ひとりひとりに謝まってまわらなければいけない、そう思っていました。そんなことを感じていた、年末年始でした。
もっとできたことはないかとか、敗因はさまざまありますけれども、応援してくださった、松下さんはじめ、皆さまに心から感謝しております。

【会場から、「いいよ、いいよ、よくやったよ」の掛け声と、拍手】

■武蔵野市長を辞めた理由と市長選への思い

橘 温かい拍手、ありがとうございます。いや、本当に大変だったし、笹岡さんがそのあとでずいぶん落ち込んでいると感じていたので、今日は私がお声掛けしたんです。皆さんの前で、マイクでお話をしてくださいましたことは、私としても非常に嬉しいし、本当にありがたいことです。
松下さんも、この選挙についてはいろいろお思いがあるでしょうし、言いたいこともあるでしょう。私から見ていたら、松下さんも必死になっていて、「応援に行くよ」と言っていたのに、それがうまく伝わらなくて、できなかった。周りから見たら、松下さんの応援が足りなかったという声もあるようです。でも、実は、松下さんも一生懸命に応援していたんですよね。松下さんなりの悔しさもあったと思います。

松下 まず、昨年秋に菅直人さんが今期で衆議院議員を引退される決断をされ、その後、私が衆議院を目指したいということを皆さんにお伝えをしました。そういう思いを持ったまま、市長の職を続けるのはいかがなものかと考えるようになりました。衆議院はいつ解散になるか分かりませんので、早期に辞任することを決断して、11月末で辞めました。
そのことがあったので、市長選挙と市議の補選が行なわれることになりました。ですので、私自身、この選挙にはなみなみならぬ思いがあって、自分の選挙と同じ気持ちで、絶対に勝ちたいとの思いで取り組みました。
ただ、いろんな皆さんから、辞任したことへのご批判もいただきました。「ずっと市長をやってほしかったのに、なぜ辞めたの」と言われましたが、私としては、衆議院に挑戦したいとの思いが強かったんです。それは、武蔵野市を投げ出すわけでも、逃げ出すわけでもないんです。市長としてがんばってきましたが、市長としては限界があるから、やはり国政の場で、法律を変えたり制度を変えたりすることで、武蔵野市をもっともっとよくしたいとの思いで、衆議院に出たいということをお伝えしたのですが、なかなか伝わらなかったんです。
そのこともあったのでしょうか、市長選挙の応援も、私としてはもっともっとしたかったし、時間ももっと長く取ってありましたが、「もうこの時間だけでいいです」という形になってしまい、制約がありました。そこで市議の補選もあったので、そちらの応援に走りまわりました。

橘 松下さんはもっともっと応援したいし、そうオファーも出したんだけど、そこがうまくかみ合わなかったということですね。笹岡さんももっと応援して欲しかったけれど、候補者の立場では、ああしてこうしてと言えなかった。本当に、お2人とも悔しい思いをしていたわけですが、今日はその悔しさを発言してくださいました。それだけでも、大変良かったと思います。
原発、食、子育てなどについての思いは、お2人は必ず一致していると思うので、今後は、そういうことをやっていただきたいと思います。

■これからの武蔵野市への思い

橘 笹岡さんは、今後の武蔵野市に対してどのように思っていますか。「また市長選挙に出る」とかは言わなくていいですが、ご自分の地方政治家としての思いがありましたら、聞かせてください。

笹岡 年末年始は大変、気落ちしていたんですが、それも無責任じゃないかと思うようになりました。2万人以上の方が票を投じてくださったわけであり、「私、ショックですから籠もっています」というのは無責任だなと思っています。やっぱりもう1回動かなければいけない。今回の市長選において普段政治に関わってこなかった、働く世代、30代、40代、50代の我々の世代が、活動してくれたんです。子育てがあったり、介護があったり、残業もあって忙しいけれど、活動してくれました。コロナ禍で一度切れてしまった横のつながりが、もう一度構築されたんですね。
武蔵野市は政権交代が起こってしまったわけですけれども、これからの4年間、それを見過ごしているのはとてももったいないことだと思います。やっぱりもう一度改めて、新しい方を巻き込んで、武蔵野市をよりよい街にしていくために、なにかしら、やらなければいけないなと思い直した、年始でした。
ですから、なにかしら力を携えて、もう1回頑張っていきたいと思っています。

【拍手】

橘 本当にがんばってほしいといます。松下さんは、市長を6年やって、菅さんのあと衆議院へ行くんだということで辞任し、いま、準備していると思います。武蔵野市から出ていくわけではありませんが、これまで市長として一生懸命にがんばった武蔵野市について、どういう思いを残しているでしょうか。

松下 市長在任の最後に、次の計画作りに携わりました。第6期長期調整計画というのですが、新しい市長になっても、ほとんど変更がないと聞いています。ただ、公立の小・中学校の給食の無償化を検討して進めていこうと議論してきたんですが、この4月から、東京都が無償化に半額補助を出すことを決めたんですが、武蔵野市は残念ながら4月からの学校給食無償化には、予算を計上していないんです。そういうことも含めて、チェックをしていかなければと思っています。なんでやらないのでしょうね。やらない理由が見当たらないと思っています。議員の皆さんに予算委員会などで議論していただきたいと思います。
4年って長いんですが、あっと言う間なので、いろんな市民のみなさまとともに、市政のチェックをしていきたいです。市民の声が届く市政であるのか、しっかり見ていきたいと思っています。

橘 ありがとうございます。本当に今日、2人が出てくれて、笹岡さんは明るいというか力強い言葉を出してくれたのは、嬉しく思うし、松下さんにも、次をがんばってほしいと思います。

■日本で原発がなくならない理由

橘 話を原発、エネルギーに戻して終わりたいと思います。菅さんもおっしゃっていた、原発なしでもやれるんだという話です。原発なしでも、自然エネルギーだけでやれるんです。ドイツがやっているからというだけではありません。
日本がなぜできないのか。それは、(政府が)そっちの方に舵を切らないからです。原発が好きな人がいるからなんです。それだけのことです。他に理由なんてないんです。
ここに、2月10日の朝日新聞がありますが、1面トップに「再エネ45万世帯分 無駄に」とあります。再生可能エネルギーを去年1年間で、45万世帯分無駄にしているんです。国が、発電できるのに止めているんです。なぜかというと、原発をベースロード電源にしたので、止めるわけにはいかないからなんです。原発は、簡単に止めたり動かしたりができないんです。そこで、原発を動かして電力があまってきたら、再エネを止めなさいと言って、45万世帯分を無駄にしている。
なんでこうなるんですか。国の方針がそっちに向いているからなんですよ。原発と再エネ、どっちがいいかなんて、決まってるじゃないですか。太陽も風もタダですよ。10年前と比べたら、太陽光発電の施設は10分の1の値段でできるようになりました。風力も10分の1になりました。それで発電した電力を蓄えるバッテリー、蓄電池も3本の1でできるようになった。
技術はどんどん進歩しているのに、日本はなぜか原発が大事な人がいる。さらに、せっかく作った原発を再稼働したい人もいる。たしかに、すでに作っているから安いかもしれない。だけど、これだけ危ない原発を続けていって本当にいいんですか。能登で地震がありましたが、もしあそこの志賀原発が動いていたら、どうなっていましたか。逃げられませんよ。実際に、地震で道がどんどん寸断されて逃げられなかったと報告されているじゃないですか。
私はこの映画を上演しながら、いつも強くこのことを皆さんに訴えているんです。
【拍手】
ありがとうございます。今日びっくりしたのは、『太陽の蓋』を初めて見た方がたくさんいらっしゃったということでした。本当にありがとうございます。この映画をよかったと思われた方は、宣伝してください。
実は、今日は皆さんには有料で見ていただきましたが、YouTubeでは、タダで見ることができます。

『太陽の蓋』130分版・日本語字幕付はこちら

『太陽の蓋』90分版・日本語字幕付はこちら

どんどん宣伝してください。いままでに34万人に見ていただいておりますけど、できれば早く100万人に見ていただきたいと思っています。
ありがとうございました。

【このように、アフタートークでは、当時の総理大臣である菅直人さんにもお話していただき、特別ゲストのお2人には武蔵野市と市長選挙の話もしていただくという、武蔵野政治塾ならではの上映会となりました。】

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